主日礼拝での司会を仰せつかるこの頃
最近はありがたいことに、主日礼拝の司会を担当させていただくことが続いている。
特に8月 9月とは、他の担当できる方の事情があるようで、
毎週私が司会というのが続いていて、頭を抱えつつ、もがきながら過ごしている。
最初は、うちにも牧師の卵たち沢山いるじゃん!とおもっていたが、
水曜礼拝というのもあるし、早天祈祷会というのもあるから、牧師の卵たちも忙しいみたい。
私ばかりが司会などをしてあきませんか?とか役不足です、などといってやんわりと断ろうとしたが
ますます毎週司会色が強くなってしまっている8月そして9月である。
どんな人が司会をする?
伝道師、講道師(日本ではなじみが少ないが伝道師と牧師の間のような役職)、牧師。
都会の教会では、牧会者(ぼっかいしゃ)と呼ばれる教会を担当している牧師たちだけではなく、いろんな牧師たちがいる。だから、そういう人達が順繰りで司会を務めていくことが多い。
だから、私のような感じだと、都会の教会であれば、私が司会という大役を仰せつかることはないはずだ。そのあたりが地方の人材不足と呼ばれるところなのかもしれない。
案外、御言葉を伝える説教者となる牧師さんは赴任地を数年おきにかわる。
元々きちんと神学を学んでから牧師になられるし、牧師となられてからも全国一律でいろんな研修講習を受けておられる。だから、地方と都会の格差はそこまでないと思う。
でも礼拝はそれぞれの教会で守る。だから、礼拝の司会者や代表祈祷者、などは、原則その教会に所属している人が行う。そもそも人数が少ないのが地方の教会。
都会に比べて教会の歴史が浅いので、必然的に教会に通う人たちの信仰歴も若い。
実際、今通っている教会は、教会としてこの地にできてから21年。私は別の教会で御言葉を聞き始めたのが30年より前。そうなるとね(;^_^A ということになる。
司会者って偉大
やってみて特におもうのだが世の中に「司会業」っていう職業がある理由がわかる。
司会の世界も奥が深い。
礼拝の主役は説教者(を通して伝える御言葉)であり、代表祈祷をする人であり、聖歌隊で賛美を賛美を捧げる人たち。ひいては、礼拝に参加する一人一人だ。
主役がスムーズに自分のポジションで輝けるようにしていくというのも結構な技術である。目立たないようにしないといけないが、大事なところはしっかり押さえないといけない。
先生の箴言に
”賢い人とは、確実、正確、明確に行動し、話してくれる人である。”
という言葉がある。
これが私の最も苦手としているところなのだが、できない人もうまくやる方法が1つだけある。それは「事前の準備」だ。
準備大変
ついつい怠ける私は、日曜は9時ぐらいまで寝て、10時ギリギリに礼拝にいきたい。
だが、司会という使命柄、日曜も明け方4時より遅く起きるわけにもいかない。
いや、そもそも土曜から時間を食う。
「開会賛美」と呼ばれる礼拝の最初に全体で捧げる賛美の選曲、そして、聖歌隊がない時に全体が聖歌隊として歌う「全体賛美」の選曲。なんでもいいというのが曲者。
日曜から土曜までの御言葉を全部読みなおして、祈って、何十曲も賛美をきいて、歌ってもみて、選ぶ。これに何時間もかかる。この1曲が何でこんなにかかるねん!?と毎週思う。
そこから、説教には必ず本文と呼ばれる聖書の箇所があるのでそこを確認してみたり、
交読文といって交互に司会者と皆で御言葉を読み合わせる場面もあるのでこの練習も大変(;^_^A
最後に、見た目問題が重くのしかかる。
服が大変・・。
なんせ美男美女の多い我らの教会。私だけは背も高くないし横には大きくて、顔もいまいち。
加えてそれなりに年だし・・
ここ数年、着物をリメイクして服を作ってきたりしていた。着物は案外と布の質がいいので綺麗に見えるが、柄も派手なものが多い。
司会だから、脇役に徹しないといけないのと、きちんとしたスーツに近い服を選ばなければならず太っている&年をとればズボンが楽という風になっているところにスーツは大変(;^_^A
情けは人の為ならず、使命も人のためならず
大変だが、近頃は感謝をもっとしないとな、と考えている。
結局、司会をしながらいかに自分が足りない人間なのかがよくわかる。
だけど、司会をさせていただくことで見えてきたものもたくさんある。できないと思うから、いろいろ研究もするし、祈りもする。
そうすると、神様がインスピレーションを与えてくださり自分も思いもつかない祈りを思いついてみたりする。
そうやって、自分のできることだけ、というふうに範囲が狭まることなく、年をとっても広がりがあるということ自体が大きい祝福だなと思う。
礼拝の時間
礼拝に来ることを強制される、時間を縛られるから、と嫌がる人がいる。
だが、本当のところ、嫌なら来なくてもいいのだ。信仰というのは自由だから強制ではない。
そもそも「しなさい」という聖書の御言葉は神様が祝福を与えたくて定めた法だ。
しかし神様は人間に自由意思を与えているから、イヤイヤよりは家で寝ていたいのなら極端な話寝ててもいい。と私は思っている。私も強制されるのが嫌だから、強制したくない。
実際、世の中の常識からすれば、礼拝にきたら、もちろん、それだけ時間が礼拝に持っていかれる。その時間遊びにいったり、休んだり、勉強をしたりという時間が削られる。
でも、来るだけの価値があるよ、と私は密かに思っている。何なら私はケチだから、来たくないというと、ちょっと喜んでしまう自分も以前はいた。よしよし、君は知らないだろうけど私だけがもらうよ、と。
「礼拝は神様に出会う時間」「礼拝は運命を変える時間」「礼拝に来た人だけに神様はそれぞれその日にあったプレゼントを用意してこられる」という御言葉がある。
神様だからお金とは無縁の世界にいる。だから不当にお金を巻き上げられることはもちろんない。逆にお金をくれる世界でもない。神様を信じてるから急に金持ちにもならないし、出世もしない。
だけど、人間からはもらえないものをもらえると思う。
自由
行ったらずっと行くのを強制されるでしょ?という人がいるが、「それって来たいの?」と不思議に思うことがある。「嫌です。やめます。」って言えばいいのに・・
司会者として私が教えられたわけではないけど気を付けていることがある。
私は、こんなにも長い間神様を信じながらも信じることを強制しないでと思っている人間である。だから、いいでしょ!と押し付けるような感じにはしたくないなと思っている。神様を感じなきゃ!と負担を感じる人が多いのだが、感じるということは自然なことで、無理くり感じようとしたって無理な話だと思っている。そうしてしまうと自分で自分を縛ることになって神様は働きかけづらいのでは?と思っている。
私自身が摂理という教会に長く通い続けられるのは、強制されないからということがあると思っている。信じてるんだったら態度で示せよなとか、いいと思ってるんだったらみたいに人を縛る信仰者がいる。私はそんなことを先生にされたことは一度もない。
日本じゃないなら、教会が身近で神様を信じてても信じてなくてもサードプレイスとして機能して尋ねてくる人って結構いる。摂理もそういう教会として一層前進していけたらなと思うこの頃。

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