マリヤとマルタに見る人との付き合い方

その他

最近は、「コスパ」ということばをよく聞きます。
物を買ったり、何か仕事を効率よくこなすという意味ではいいのですが、
アナログ人間な私は、たまに、コスパ重視な人につかれてしまうことがあります。
この人との付き合いはコスパがいいのか?と吟味されているような気がするときがあって、疲れるなと思うことがあります。

どうして私だけ!?

イエス様は、姉マルタと妹マリアの姉妹のおうちによく立ち寄られました。
当然イエス様についていく人たちもどやどやとついてきたでしょう。
そうしておいしいものがたくさん出てきて、和やかな雰囲気の中で、イエス様はさまざまな御言葉をされました。
実はこの二人のお兄さんラザロという人も住んでいて、イエス様がお兄さんの死後3日ぐらいたって訪ねてきたとき、イエス様がラザロを生き返らせたことでも知られています。

マルタはお料理とか、雑務を担当し、マリヤは話し相手担当ね、ってかんじで、イエス様の近くに座って、ずっと御言葉を聞いて楽しんでいました。
それで、マルタがついにブチ切れてしまいます。

マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。

ルカによる福音書/ 10章 40節

損な役回り

イエス様はどう答えたかというと、

主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。

ルカによる福音書/ 10章 41節~42節

でした。あなたならこれをどうとらえますか?
マルタは一生懸命頑張ってるのに、イエス様に評価もしてもらえなくて、
マリヤはただじっと楽に座って自分のやりたいことをやっているのに、褒められて、なんだかマルタって損な人だなって思いませんか?
誰もやりたくないことをやらないでいて、結局ここの組織が回っていかないと困るじゃん、とか思うこともあると思います。

なんだか器用に、自分のやりたくないこと、面倒なことを押し付けられやすい不器用な人がいたかと思えば、
押し付けるのがうまくって、自分は出世や目立つところだけを要領よくやれる人がいたりしませんか?それなのに、イエス様までそんな!って思ってたことがあったんです。そうして、誰も私を認めてくれない、わかってくれない、という心がつらい状況が出てきたりします。

はい、喜んで

長い年月、あれこれ取り組んでみたんです。
あの時のマルタのようにイライラしない、私だけ何で?って思わないようにできたらいいなあ、と。
そういう自分が好きになれなかったので・・。

やりたくないことは断ろう、と思ってNoと言える勇気、というMyキャンペーンが敷かれたこともありました。
嫌いにならない努力、というMyキャンペーンの元、相手を嫌いにならないために、率直に思っていることを伝えて友達がものすごく減った時期もありました(笑)。

ある日、居酒屋に行くと、喜んでなくても「はい、喜んで」と注文を受けてくれるお店がありました。
最初は違和感を感じたり、それでも面白かったりしました。

マルタがなんで、思い煩うなと言われたかというと、喜んでなかったんだなと。
無理やりな愛はしてもいけないし、受けてもいけない、という総会長牧師の言葉があります。
難しいけれど、一つ一つ無理やりをなくしていくプロセスの中で、心が丈夫で大人になっていけた気がします。

マリヤのすごさ

マリヤはどうしてイエス様に褒められたのかというと、どんなに批判されても御言葉という大事なものを見失わない強さがあったんだと思います。
また、イエス様の話を引き出すのが本当に上手だったんだと思います。
だから、じっと座って楽しくしているようで、とても重要な役割を担いながらその場に座っていたのかなと思います。

自分を愛するように

この前、片付けの番組で父親がいつも認めてくれない、という話に、片付けの先生が「認めてくれないと思ってる本人自身が自分を認めていないから」と答えていました。
実際はすごく頑張っているのに、頑張っている自分を違う価値観でみて、認めていないんだといっていて、当たってるなと思いました。
人は自分が好きでないと、相手を認めることができません。

今になって思えば、イエス様は、その時イライラして思い煩わないで、と慰めたかったのかなと思います。
イエス様はマリヤもマルタもどちらも大切に思っていたんだろうと思います。
それぞれの個性通りに、うまくやっていたことを認めてくださりながらも、大変になったのなら少し立ち止まって見たらとアドバイスしたかっただけなのかなと思えるようにもなりました。

マルタもきっと、その時はイラっとしたかもしれないけれど、イエス様にずっとついていって、幸せな人生を送ったのかなと思います。
この後、お兄さんが亡くなったけれど、イエス様が生き返らせてくれる奇跡にも巡り合います。
この時、マリヤとマルタが喧嘩もせず、二人一緒にイエス様のところに進み出ているので、マリヤとマルタはイエス様の元で、お互いを認め合う仲のいい姉妹として人々に愛されていたのではないか、と思います。

お互いを思いやる世界

貧しくても、大変でも、お互いを思いやる心をケチりたくないなと思います。
私だけが何で?と思わず、いつも豊かに分け与える心あふれる自分でありたいし、
そのような社会になったらいいなと思います。

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