温泉街を歩く
先日、背の高いモデルさんとして長らく活躍しておられた牧師さんが、松山に来られた。
お互いの時間がうまい具合にあって、土曜の夜一緒に食事をした。そして日曜も道後をささやかに観光した。
学生自体は、お互いにあんまり多くの接点はなかったが、お互いに顔と名前はしっていた。
前回お会いしたのは7年前!?
びっくりだねえ!といいながら、いろんな時々に出会った先生のこと、月明洞のこと、学生時代の教会の話や、お互いに伝道されたばかりの頃のこと、加えて牧師さんを伝道した牧師さんの話題など、女子トークと言うべきなのか?楽しく過ごした。
思い出が動き出す
この前、ブログを書きながら書いたかもしれないが私が先生を思い出そうとすると、後ろ姿しか思い出せない、と思っていた。
牧師さんに会って他愛もないことを話していると、自分の記憶の中で少しずつチョンミョンソク牧師の横顔を思い出すようになり、さらに進むと、多くの会員たちとともに笑ったこと、あるいは真剣な顔で怒られたこと、などなど、思い出すようになった。
後ろ姿しか思い出せない。先日私は、先生のことをそう書いた。それを神様が聞いておられたのかもしれない。そして、神様は私をかわいそうだと思われたのかもしれない、私はそう思った。
心痛いこと
このように、むかしむかしのはなしをあれこれしていると、
いいなあ、お会いしたことがあるなんて・・と最近はよく言われる。
自慢をしたいわけではないが、歳月を経れば経るほど神様を信じて信仰生活をする楽しさは深くなっていき、お金はないかもしれないが真実な豊かさが何かを思い知るような年齢になった。
しかし、過去を振り返ると、
一緒に教会に通いながら楽しく過ごしていたのに今は教会に来ていない人たちをたまに思い出して、心が少し痛くなる
私なんかよりはるかに見た目も素敵で、頭もよくて、能力もあって、性格も良かったはず・・
何より、ここにきて変わったとか、神様に出会わなかったら自分は大変だったとか、もっと熱心に信じるべきだよ、などと言っていたのに、どうして急に変わったのか、今でも不思議でならない。
私に信仰が弱いのでは?とか、
そんなのでは神様に嫌われる、とか
自分中心の信仰だ、とか、
あなたには主が共にされないと思う、等と言われたこともあったし、
もっと熱心に頑張れ!祈れ!とか言っていた人たちに限って・・
不思議にも熱心に反対する。
更に私の中で理解できないことは、
「あの時私が言ったことは間違いでした」と訂正しないことだ。
私は外見と言う意味でも見劣りするし、性格という意味でも大変なのだが、
「あの時ああ言ったのに違うの?」と言われないように
自分の言葉と行いに一貫性が出るように努力しているし、
違っていて、ましてそれを人に勧めたりしたのなら、
あの時は間違いだったといって謝ると思う。
私は教会に通っていても通っていなくても、
自分の言うことに一貫性がないんだったら、人生失敗するんじゃないのかな?と思うことがある。
最後は茶漬けで締めるように
この世の中はインフルエンサーがもてはやされる時代になった。
人にどんな影響を与えられるかが重要だと思われるようになった。その影響を与えると言われるものの殆ど、刺激的なもの、刹那的なもの、のように私は感じる。
近頃の私は、なんでもないように見えて、良くみたら凝ってる!というものが好きになった。芸術も、世の中の多くのものも、豪華に豪華にいった先は、わびさびのような世界が究極なのかもしれない。
人も、飾り気がなくて素朴な、率直で正直な人がいい、そう思うようになった。そのように隠れて見えない人の価値を見分ける、価値ある人間になりたいなと思うこのごろである。

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