はまりやすい人間は是か非か

ちえみThinking

一周回って元の位置へ、ということが自分の中でよくある。
ブログの記事なんかもそうで、一周回って結局記事をUpしないまま数か月が。ということも。
最近の一周回って結局次なるアクションを起こさずに終わっていることの一つが旅行。
ヨーロッパへ行くぞ!となり、旅行の本を買って読んだり、紀行番組なども見たり、
乗る飛行機会社とダイヤまで調べたりした。
イタリア語の語学番組を見たり、フランス語は・・え?ウィーンってドイツ語なの、
だったら英語でええやん、と果ては英語のラジオ放送を毎日聞いてみたり・・。
だが、スリ大変そうとか、治安がとか、そういう心配をしだして、
旅行に行ってそれを見ても死んだら特に意味のないことだ、などといったことまで考えて結局何もしないまま、手元に「地球の歩き方」だけが残った。

すべての物事においてそんなところがある。
そうかと思えば、ながーい沈黙のあと何かのきっかけに火が付いて、驚くような行動力でとんでもなく速く動いて周りの人たちをびっくりさせることもある。
服や食事のメニューなども、車を買うだのジムに行くだの、習い事を始めるだの、
恐ろしいほどスパッと決めるように見えるのだが、大抵上記のような考えまくって一周回って元に戻ったものであることが殆ど。

スパッと決める一面だけを見たり、悩んでいる一面だけを見ていたら、
私という人間と付き合うのはまだ面倒じゃないと思うのだが、
両方を見ている人にとっては、もうウンザリ、と思わせてしまっているのではないかと思う。

加えて、ちょっとだけ触れてみようよ、ときっかけをくれる人がいると、
そこから深く入り山の頂上をめざしてしまう、
そんな傾向もある。
考えが多動なので、一度は考えたことがあって気になってたところにちょっと風を起こしてくれる人がいると、ぐるりと火が付いたようになることが多いという背景がある。

軽い人間と言われると、正直、ちょっと違和感を感じてしまうのだ。
多分、一周回るほど考えることに労力を費やしすぎているのに、実際は何にも進んでいないのと同じ、というじれったさが自分にもあるのだと思う。
せめて私が軽はずみではないし、目の前のあなたのことだって雑に考えたりはしていないよ、という意味を込めて、考えの変遷を話すと
今度は「複雑に考えすぎだよ」と言われる。

だから、皆に「変わってるよね」と言われても、そうなんだよね、と思っている。
ただ、「何が」変わっているのか、という点については実際のところは私も、「変わってる」と言った人も、やっとこさ「変わってる人」という番地に振り分けただけで、それ以上追及できないほど得たいのしれない人感が強いのかもと思ってしまう。

この「変わってる」についても考えがどんどんと回っていってしまっていた。

人間は何かと分類し、タイプ分けしたがる。
未知のものを理解し、自分に有益をもたらすためにそうするし、
未知のものを理解し、危険を遠ざけるためにそうする、
本能的なものだと思う。

私自身もそれでADHDでは?とかASDか?とかもういろんなことが飛び出していく。

そこも一周回って最近、
「ADHDだったら何か問題があるの?」という問いに戻ってしまった。
私が何であれ、生きるための不便を解消したい、それだけでは?と元に戻った。

変わってると言われて不便を感じたことは殆どなく、
摂理の教会に通ってからは、教会の中で「変わってる」と言われるのは問題がなかった。
仕事でもそういわれるが慣れっこだった。
教会では信仰をきちんと持っていれば問題が起こらないし、
仕事では自分の役割をわかってきちんとこなせば特に大きい問題がないと思っていた。

が、友達ではないが、今まさに御言葉を聞こうかどうしようか、という人だったり、
摂理と呼ばれる教会に対してあまりいいイメージを持ってない人と対峙するとき、
「変わっている」ということを不便だと思うようになった。

「変わっている」から話を聞いてもらえないのだ。
そして、一周回って「考えてない奴」、
「純粋で騙されやすくて、信じ込みやすくて」と思われてしまうのだ。
説明すると今度は、善良そうな顔をして結構計算高いと言われたりして、人としてのコミュニケーションが取れない問題がある。
摂理とかクリスチャンということを介してないのなら大きい問題がないのだが、
イエス様は一緒に通っている教会の人が自分のせいで悪く言われているのでは?
と思うとつらい。

私はハマりやすい人間なのか?
自分自身にたくさん問いかけて30年近くになるが、一度もはまりやすい人間、と思ったことがない。
自覚症状がないのでは?思い込みが激しい、などと言われたりもしたし、
自分自身でもそうではないか?と何度も「客観性」を持たせてみたりしたが、やっぱりどちらかというと自分では違うのじゃないかな?と思ってた。

でも、最近、これも、考えがどんどんと回っていって、
「今の人ってはまってる、っていうことを悪いと思ってるのかな?」という疑問がわいてきた
私にとって、はまってないよね?といつも自分に問いかけることで
御言葉でそんなことを言われているわけでも、誰かがはまるなと言ってるわけでもないのに、
自分で自分を縛ってる感じがして窮屈なのだ。
テレビとか摂理に来る前に刷り込まれたイメージがよくないんだと気づいた。
「ハマる」=溺れるとか、偏る、というイメージがあり、
それがなんか悪いこと、みたいに感じてしまうことがあった。
きっと、子供のころ、ワイドショーなどで怪しいカルトが出てきて
変なことにはまってその末路は、といったイメージが強すぎるのだと思う。

実際摂理の現状って、はまっててつらいっていう想いをしたことがないので
違うということを何とか上手に説明しないと、と思うと力が入ってしまうのだ。

そうして、中庸を保っている常識人になろうと無理をしてしまう自分がいる、
という考えに至ったわけ。

でも、ヤバイという日本語の意味が変化したように、はまったも「推し」文化とともに
良い意味が増えているのかもしれない、とふと思った。

実は、いつもこのことを考えると思いだす女性のメンバーがいる。
一回りぐらい若い女性で、いつも笑顔で結構おしゃれな人なのに「ガハハ」って感じのパワフルなのにほっとする人だ。
私自身思いつめてしまうようなとき、彼女の声を聞くだけでホっとする。
電車に乗れば2時間ぐらいなのに、会いに行こうかなと思うこともある。

その人と行動すると、
「ハマった!コレ!!」と楽しそうに話す。
美味しいものを食べたり、面白い話を聞いたり、楽しい趣味の話など、
新しいことを見つけてはいろいろと楽しいようで
「やーばい。はまったよ」という。

考えてみたら今の時代は、生きていくためのものはなんでもあるので
何か抜きん出ようと思ったら、1つの世界を極める必要があって、
そうするとどうしても「ハマる」というプロセスを経ないと難しいと思う。

だから、いい方向をつかんで「ハマる」ことで成功する、んだと思うんです。

チョンミョンソク牧師(以下先生)が以前
「人間は好奇心をうまく使わなければならない」
とおっしゃったことがあります。

ある程度の熱量をもって力強く突き進めないと物事がなせない。
だから、ハマるという過程を経るんだけど、
一方で、先生が
「人間はいつも自分の矛盾を鋭く見つめる目が必要」
とも。

私ははまりやすい人間なのか?
結局まだ、答えは出てないです・・
ああ、これも考えが一周まわってしまいそう。。

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