人間は性善説か性悪説か?

ちえみThinking

クリスチャンは、人間を性善説ととらえているという通念がある?

私が御言葉を聞き始めたきっかけを作ってくれたA先輩は、もともと私ではなく、別の人を教会に導きたいと思っていた。

そのもともと教会に来てほしいと熱心にラブコールを送っていた彼は、同じサークルだったので
一度、君ってあの教会通ってるんだ、って感じで何か話をした。

どんな話をしたのか覚えてないけど、
彼がその時してきた質問は、
「人間は性善説だと思うか?それとも性悪説だと思うか?」と。

私は、「性善説だと思う」といったら、やっぱりね、って感じで冷ややかな視線をこちらに向けたことは昨日のことのように覚えている。しかし、その質問以外に何も覚えていない。

彼はクリスチャンなら皆、
人間は神が創造したので善、と答えるのが通例と思っていたからか、
性善説と思う、と言った答えを聞いたら、やっぱりね、っていう感じで、それ以上議論をしなかった
と記憶している。

もっと違う答えをすればよかったな・・

あれから何十年という長い月日がたって、今の私がその時に戻れるのなら、
私は彼に、「性悪説だと思う」と答えるか、

冷たく「そんな次元の低いことしか考えられないの?」ぐらいの肘鉄をくらわしたほうが良かったかもしれないと思う。実際はそんなふうに人間の尊厳を傷つけるべきではないけど、クリスチャンに対する冷ややかな侮蔑のようなものを感じたということを伝えるべきだったかなと思う。

人間は善で生きねばならない、と誰も言ってはいないが、神様を信じてなくても良心がそう叫ぶのだ。そして、人間は善で互いに生きてこそ、人間らしく「生きる」ことができるから、人間が生きるためには「善」を持つ以外に本当は方法がない、と思う。だが、善を思い求めている夢見がちな人間、現実が見れない人間、というレッテルを信仰を持っているすべての人たちに対して持っているような気がして、それを修正するためにすべてのイエス様を信じる人を代表して言ったほうが良かったような気がしてしまうのだ。

御言葉に照らし合わせたら、性善説か?性悪説か?

今振り返れば、「性悪説」と答えたらよかったのかなと思った。

聖書の言葉でいえば「罪びと」という言葉に集約されていると。イエス様は人々に向かって「悪魔の子らよ」と言ったし。

そして聖書を読めば、神様の言うことを聞いている人を1としたら、少なくとも9はいうことを聞かないし、特に旧約聖書に至っては人をすぐに殺す。新約聖書だって、イエス様を殺しているわけで、善人と呼ばれる資格がどこにあるか?と言っても良かっただろう。

ただ、人間は神様が創造された地点では「われわれ(神様や聖霊様)の形に似せて」創造されたわけだから、神様が善き方であることに間違いはないわけで、元は善く創造されているということかとは思う。

そうやって一つ一つ紐解いて考える時間を設けて聖書というものを学びたかったのじゃないか?と思う。結果神様を信じない、イエス様を信じない、という風に結論は同じだったかもしれないけど、表面だけをみたのではなかったから、お互いに良かったのかなって思う。

人は聞くに早く、語るに遅くなければならない

信仰をもったら、自分の矛盾を治すことが重要になるんだと思う。

嫌だ嫌だといいながら、現実問題行動はそうじゃない、そういうことが人間は実に多い。自分の現実に死かと向き合う勇気がなかったり、あるいは色眼鏡が深くて現実をきちんと見れてないから葛藤がお生じる。

私も、頭ではよく聞いて語るのが遅くないといけないとわかっているのに、すぐに話すと指摘を良くされる人間だった。相手がどう思っているのかを深く聞いて把握する力が弱かったのだと思う。相手の言葉だけを聞いて判断しないで、やっていることやその言葉が出てきた流れをつかんでいくなども含めた聞く力が不足していたんだと思う。

もう一つ、黙っていたらあることないこと決めつけて言わないでよね!と怒りたくなるが、反論する隙を与えてくれないという話法が現代人には多くある。刺激的な言葉を使わないと、勝手に決めつけられて不本意な思いをさせられることが多いから、言わなきゃ!と焦りを強くさせられるという構造がある。

それでも、最近は、語るのを遅く、と心がけている。

無理に言葉で言わなくても、重要なことは言葉と現実が、行いが一致しないといけないということだから、落ち着いて確実なことだけをきちんと伝える努力をしたほうがいい、というふうに切り替えている。

千言の飾り言葉の後にある一つの真実のため、じっくり聞くし、語るのが遅くなっても真実を一言だけ言えばそれでいい、と思うようになった。きいてくれても聞いてくれなくても、真実が重要、最近はそう思う。

そして信仰をもって本当に良かったこと。

神様は真実を明らかにしてくださる。そして、人間的な思惑が一瞬は覆いつくして正直者が馬鹿を見るように見えても、黙々と神様が正しいと思われている道を行かせてくださいと祈ってすすんでいきたいと思うようになった。

私もまだまだ、罪の中に生まれた人間。そして、幼さがどこかに残る未熟な人間。だけど、真心を尽くして誠実に生きることの価値を教えてくださった摂理の先生に敬意を表して、イエス様の背中を追いかけながら自分を磨きたいなと思うこの頃。

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