先日、論理的な考え方、いわゆるロジカルシンキングというものを身に着けるといった、教会の内外で行われているワークショップを教会で開催したようです。
私は、参加しませんでしたが、参加したある女子がその晩、泣きながら電話をかけてきました。論理的な考えを持てていないと痛感したとかで、論理的に話すことができないので、人生がうまくいってないんだというのです。
その場で、心の中で祈りながらとにかく、不安になっている心がまず取り去られるようにお祈りしながら対話すること1時間。
特に明確な答えを与えてあげることはできませんでしたが、彼女は賢いので、話しているうちにいろいろすっきりと整理できたのもあるし、神様が心に感動と知恵を与えてくださったようで、悪くない感じで対話を終えました。
が、電話を切った後、私は彼女のために何かしてあげられることはないんだろうか、と考えているうち、考えはどんどんと深い茂みに入っていきました。
まず直感的に思いました。
論理なんてクソじゃない?
もっと論理的に、ロジカルに上手に話したいという人に、反旗を翻したい私。今日は完全にちえみさんのボヤキみたいな記事です。
猫も杓子も(ねこもしゃくしも)ロジカルシンキング
教会でも世の中でも「ロジカルシンキング」つまり、論理的な考え方、話し方を重視する傾向が強くなったなと感じます。
世の中は、小学生からプログラミングを教えて論理的な考え方を身に着けさせるんだというし、
ビジネスの世界では、プレゼンテーションや話し方、といった極意が目立ちます。
教会でも、ヨハネによる福音書1章に、「はじめに ことばがあった、ことばは神であった」とあり、この「ことば」とは「Logos(ロゴス)」で「法」とか「論理」と言ったことを意味するといったことや、
「わかりやすく聖書を教える」為に、論理性を身に着けようといった動きがあるけど、そこにも自分はいつも違和感を感じているな、と考え込んでしまったのです。
むなしいだましごとの哲学
いつも、論理とか、いったことを論じ始めている人たちと一緒にいると、口には出さないけれど浮かんでくる聖書の人ことがあります。
「むなしいだましごとの哲学」
そもそも自分は論理的じゃないとだめだという考え自体がないし、
聖書を通して論理的に考えることが重要なんて、教わった覚えもない、
そこから、考えが深くなってしまったのです。
そこで、聖書で最も多く「論じた」人は誰だろう?と聖書本文検索で「論じ」というワードで検索してみたところ、「使徒パウロ」が最も多く論じていました。
キリストの正しいことを論証していたのです。
イエス様を実際に見た弟子というのは、論じず、ただ、「証し(あかし」」をするのです。つまり、見たこと聞いたこと、そこで感じたことを生き生きと、素朴に語っていたのじゃないかと思ったのです。
十字架という極刑で死んだ、当代随一の極悪人が、この世で最も崇高な「キリスト」であるという事を伝えなければならないし、イエス様ご本人はこの世にいないのだから、ピリポのように「来てみればわかるんだ、とにかく来て見ろ」とも言えないわけで、その中で論じて論戦を繰り広げたのだと思いました。
その彼が、先の「むなしいだましごとの哲学」といって切り捨てたし、
イエス様の言葉と行いにすれば、この世の哲学や論理など、クソだ、って書いてあるのです。
私も彼女の電話を切った後、最初こう思ったんです。
論理性?そんなのクソだ!って。
誰かを批判する人になってはいけないけど、無意識のうちに、ずっとそう思っている自分にもう一度気づいたのです。
論理性とは何?
だいたい、論理を強調する人に、じゃあ、「論理的って基準は?」と聞くと逆切れする人が多いのです。ロジカルシンキングの旗手たちに聞いても答えられる人はいないなら自分で研究しようと思い、今回真剣に考えました。
そして、私なりに答えを出しました。
「論理性とは一貫性だ」と思いました。
要するに、話のつじつまのことを言っているのです。
話しのつじつまが合っていて、もうちょっというのなら、「順序」がよくて、「秩序だった物言い」だったらいいのです。
論理性の落とし穴
でも、もっと研究してわかったこと、「論理は前提が重要」ということ。
前提が違うのなら、違う答えになるのです。
私は、論理的なことを愛する人は遅いなっていう印象があります。考え込んでいて、行動に取り掛かるまで遅いけど、それは、正しい前提を収集するのに時間がかかるから遅いんだと思いました。正しく判断するためにじっくり考えることは私にとって必要だなと思うのですが、
そして、論理的なことを強調する人は、行動が論理的じゃない人の割合がもっと多い感じがする、と思っていましたが、現実の世界は、刻一刻状況が変わりますから、都度前提が変わるから、それに従って論理が常に修正されるんだと思いました。
また、論理的な人は、眉間にしわが寄るほど思い悩んでいる人が多く、幸せそうに見えない人が多い、とも思っていましたが、あー、前提が変わってくることが複雑で考えるべきことが多くなるとか、自分ではどうしようもできないことが多くて、うーん、それなら、と予期せぬ変数Xに頭を抱えているからか、と思いました。
直感って意外に大事と思うんだけどね・・
女は感情の動物で直感的に動く、と言って直観的に行動する人を馬鹿にする人たちもいますが、直観派の端くれとして反論させてもらうと、世の中は直観の時代に進んでいっていると思います。スマホに始まり、今の家電やツールって、「直観的に操作できる」というフレーズが多いんです。
また、人付き合いも、第一印象がすごい大事というし、
人の直感って脳が今まで生きてきて蓄積してきたものを処理して出てくる感覚だっていう説もあるんです。本人が覚えていないような記憶や今見たり聞いたりして受けている刺激と組み合わせて出てくるんです。まあ、AIみたいなもん・・。
こうスピードを重視する時代、インスピレーションとか野生のカンとかいったものが意外に明暗を分ける時代になるような気もするんだけど、どうなんでしょう・・。
一貫した生き方
くだんの泣いていた彼女のほうがもっと論理的だって思ったのですが、それは彼女は言葉と行いがいつも一致していることが多いのです。
約束を破ったことがないし、有言実行、最後まで粘り強く物事を続けていく力があって、そういう着実な人はやっぱり強いと思うんだけどな、と思います。
私は本当に論理的な人間とは、「ふれない」人間なんだと思います。
誰かに何かを言われたからと言って、ふれないし、
何かの要素があって、今自分が黙々と続けているその道を途中でやめたりもしない、
そこに、人は人としての「崇高さ」とか「気高さ」「美」というものを感じるような気がします。
ずっと人を愛して許すと決めたらどんな状況環境に置かれても、そうし続ける人間、
神様の前でも人間の前でも、誰の前でも分け隔てなく、変わらない人間。
黙々と道を歩いていくには、その道が正しいとはっきりと確証を持てないといけないから、イエス様はこうおっしゃったのだと思いました。
「私は道であり、命であり、真理である」。
おまけ
イエス様も、人が殺しに来ても、ご自身の主張を曲げることなど一つもありませんでした。忖度も一切なし。聖書を読んでみると、時に舌鋒(ぜっぽう)鋭い言葉で泣く子も黙る、はい、しゅーりょー、って感じのことが多くあります。
神様を考えの中であれこれ思い悩んでいたというより、人生の中ではっきりと触れて感じて実体験でつかんでおられたのだと思います。だから、神が私に中にいる、とおっしゃったのかなーと思いました。
そして、どうして、パウロ先生はキリストを論じたのか?キリストを目の前で見て触れる実体験が少なかったんだと思います。ほかの弟子たちは論じず、「証し」をしました。見たこと聞いたことをありのままに率直に言ったから、そこに区別がついていたのかもしれません。
論じながら言いました。むなしいだましごとの哲学。だと。
ピリポが「来て、見ろ」といいました。イエス様に出会って肌で見て聞いて感じて、笑って泣いて、そんなイエス様の影を追いかけるように、苦悩しながら歩いてったパウロ先生が忍ばれもするし、イエス様をこの目で見ることができない私たちと同じ心で書いた手紙に感銘を受ける人たちも多いのだと思います。
とりとめもない話が続きました。おしまい。です。
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