イエス様の物語について書けたらなと思う反面、イエス様って結末が悲しいよな、と紋々としていました。そして、ああ、私が「この教会でよかった」と思っていることの一つに、イエス様のイメージが変わったというのがあるよな!と思いました。
限界の日に思いついたこと
7年たったころ、私はすごく限界にぶつかっていました。そして、紆余曲折の末、(今でのその結論になったこと自体不思議ですが)、
「つもりになってることを見直そう」
というインスピレーションを受け、最終的に、
「イエス様について知ろう」というMyキャンペーンを始めるに至りました。
今まで聞いた御言葉を全部きれいに整理して、読みなおし、長い電車通勤の時間を使って、1年に聖書を8通読しました。
初めて感動して泣いた
ある日、14通読目のヨハネによる福音書。初めて、聖書を読んで泣きました。
急に、イエス様の心が入ってくる感じがしたんです。弟子たちを残して去っていく、その究極的な気持ち、それまで笑って、飲んで、食べて、歌って、そうしながら時には貧しさにあえいで、そういう中でメシアとして御言葉を伝えて歩いて回った日々が全部一気につながった感じがしたんです。
そういう自分に、いろんな意味でびっくりしましたが、10分ほどですぐに気を取り直して普通の生活に戻っていきました。
オリーブ色のすごいきれいな手
そのころ、急に、教会の牧師さんが、次世代の御言葉を伝える講師たちを育てる!といって、いろんな人を指名して学んだ御言葉を発表する勉強会を開こうとしていました。
そしてずーっと逃げていましたが、対に逃げられなくなり、私の番が迫ってきていて、発表するために資料をまとめている時でした。
まとめながら、いつの間にか寝ていました。そして、夢の中では目が覚めて、はたっと起きたら、右手のほうに、オリーブ色の長くて手タレみたいなすごいきれいな手がすーっと出てきました。
ちょい大きい、そして指が長い!きれいにすーっと伸びた感じの手で、驚いたことを今でも覚えています。
ん?誰?と思って、顔を見たら、
3秒ぐらい沈黙の後、
え?
イエス様、、、??
絵でよくみる感じだもん・・
なんで?なんで私のところに??
もしかして、昼間のあれか?あの時祈ったことが聞かれてしまった?
つまり今日心が最後に感動しまくって、こんなイエス様の心を伝えたいな!とか思ったの、あれ・・・
と、声にならないで頭の中でぐるぐる考えていると
「うん、」とおっしゃいました。
うん、って?え?やっぱメシアだから心の声とか聞こえちゃうのか!と驚いていると、
静かに私の目をみて、「私の心をわかってくれたんだね」とおっしゃいました。
もう固まって沈黙しました。(夢ですけどね!!)
忘れられない声
讃美歌にも、よく「主の声」という単語が出てきます。人によるのでしょうが、イエス様はやっぱり声が特徴的な気がします。
一度、私たちの総会長牧師でいらっしゃる先生が、「イエス様はやさしく話すけど、心に強く突き刺さるような声がする」「春風のようにそっと力を入れずに話をするけど、固い心が解けるような感じで、そうしたいな、って温かい心がわいてきて、自然に悪いところを治せるような声。そうです、と従ってしまうような声」とおっしゃっていたことを思い出します。
そういえば、最近有名なきめつの刃っていうアニメで、鬼殺隊をまとめている産屋敷さんっていうリーダーが、病弱だけど、声で人の心を感動させて一つにまとめる力がある、みたいなこと言ってましたよね。。。
一瞬、そういえば、あんな産屋敷さんの声みたいだったかな?と思ったりもしたんですが、やっぱりちょっと違うような・・・もうちょっとなんていうのかな、、力強さがあったんですよ。。。
正直、似たような声質の人がいなくはない、のですが、いろんな人の声のいい部分を全部合わせたような声なんですよね。。。高くもないし、低くもないし、とんがってもないし、柔らかすぎもしないし、温かくもあり、強くもあり、謹厳でもあり、親しみ深くもあり・・
若くもあり、なんだか老練な感じもあり、
とにかくあれをどう表現したらいのか・・・
人は心のうちや、想い、生きてきた様って、意外に声に出てくるんだと思います。悪口を行ってると声がダミ声になる、と言われて、実はこの20年間絶対に悪口をいわないように気をつけています。
私は声は結構コンプレックスがあるんですが、時々「声が好き」と言ってくださいます。そんなお話を下さるたび、いやあ、もう、あのイエス様の声を録音できたのなら、聞かせてあげたい。。。と思います。。
夢でもし逢えたら♪
クリスチャンの夢の一つが夢でイエス様に出会うこと、なんだそうです。そのことはよく知っていて、もう私、教会で自慢できるわ!と舞い上がり、
イエス様の顔!よく見とこう!と思ったら、ほんとに目が覚めてしまいました。
は、、やってしまった!と思いました。瞬間海をみて溺れたペテロのように、欲にまみれちゃったんですね。。。もう、後の祭り。
それでもその日以来、私の中でイエス様=十字架の上で苦しんでいるというイメージから、生き生きと弟子たちとともに笑い、御言葉を伝えて生き生きとしている姿が先に思い出されるようになり、どういう因果関係かわかりませんが、信仰も、生活も、窮屈さが取れてきて、自然体に近くなっていきました。
「もし、イエス様が聖書に預言された通りに、また来るとおっしゃるのなら、今度は長生きして、神様も笑い、イエス様も笑える日が来ますように」、とたまに祈ることがあります。
生きることも残酷かもしれません。生きればもっと、死んだほうがいいと思うような苦しみにぶつかるかもしれません。でも、生きてさえいれば、日はまた昇り、敵は親しい友となり、あの痛みと苦しみは今日のこの喜びの日のためだったのか、と言える日が来る可能性は死ぬよりはずっとずっと大きい、と思うし、そういう苦闘の果てに生きる喜びを勝ち取る人の姿をみてみたい、と思うんです。
皆のために命を差し出して苦しみながら死んでいった局面より、生き生きとした神様の熱い愛と真心をもって、御言葉を伝えていかれたイエス様の姿が印象に残るような物語が書けたらなと思う次第です。
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