賜物(たまもの)とは?
最近、「賜物(たまもの)」について考えることがある。
何週間か前、主日の説教で「神様がくださるものは、人間が自ら努力して身に着けたものとは違うんだ、」みたいなことをおっしゃった。
(ちゃんとした正確な言い回しじゃないかもしれないけど)
賜物とはgiftのことで、つまり神様から頂いたプレゼントのようなものだ。ギフテッドというのもここからきている。神様がその人に特別にあたえた才能だったり個性で、それによって周りの人もハッピーにできるそういうもののことだ。
声の賜物をもらうために
私は実は御言葉は好きなんだけど、教会の人と接するのがすごく苦手だった。
外見にものすごくコンプレックスがあったから。
そもそも、あんまりにも話さない人だったから、
クラスのみんなが意地悪で学級委員の投票で私に票を投じてしまったことがあった。
そうやって役割を任せられると、言うべきことは言える人間ではあった。
だけど、やっぱり自分があんまり好きじゃなくて、
その一番大きなコンプレックスに「声」があった。
とにかく自分の声が好きじゃなくて、だから人前で歌うのも、話すのも好きじゃなかった。
話したいことがないわけではないんだけど、
声を聴かれるのが実はあんまり好きじゃなかった。
話すべきことを話さないといじめられるとか、
何か切羽詰まって話をすることはあるけど、
やっぱりあんまり好きじゃなかった。
それを知った教会のお姉さんが、「毎日聖書を音読したら声が綺麗になるっていうよ」と言った。
それで、聖書の音読を半年ぐらいやっていた。
もらったよ!!
割と一生懸命やっていたが、半年ぐらいして、すっかり忘れてしまっていた。
ただ、そんなことをしていた矢先、御言葉を伝える講師になったのもあって、伝えているうち、声の賜物のことは忘れていたのだ。
そうして、10年ほどたったある日、バイブルスタディを教えた女の子たちが「ちえみさんの声が好き」とよく言われるようになった。その時ハッとした。
あ、それは、私、声のためにすごく祈ってたことがあって・・。
それから声の賜物については意識するようになった。
聞いたら落ち着くと言われたし、高くもなくて低くもなくて、大きな声っていうわけでもないけど小さいってわけでもないんだけど、ずっと聞いてたいっておもう声ですと言われた。
うわ、それ・・私が祈ってた通りの声やん!と自分でも驚いた。
枯れない
もう一つ、声の賜物をもらってると思う根拠がある。
私は声が枯れにくいのだ。枯れにくいなどというレベルではない。
御言葉をたくさん伝えるとのどが痛くなって、とおっしゃる方が本当に多い。
だが、私は水さえ適切に飲めば、1日8時間ぐらい御言葉を伝えても枯れたりしない。
ホントに疲れたなと思っても、一晩寝たら元の声になっていることが多い。
声が幸せを運んでくる
声の賜物をもらったから、人と話すのがつらいと思わなくなった。
それで性格もちょっと明るくなったと思う。
オンラインが増えると実は声だけのやり取りが多くなる。そうすると、声の力が意外にも大きいように感じる。先日も教会とは全く関係ない仕事で、なかなか首を縦に振ってくれないお客様が、急にいろんな便宜を図ってくださることになった。同じチームの上司たちも喜んでくださったが、私のような知識もない青二才が話して何とかなる話ではなかったはずだが、声が大きいのではと思った。
神様が下さると、人間にどんな事情があっても「返せ」とはおっしゃらないし、それを使うとき、周りが喜べる状況を作ってくださる、それが神様が下さる賜物の特徴だよね、と誰かが言っていた。
だけど、神様は賜物をあげた人間がいつも感謝して大事に使うのを待っていらっしゃるよと言ってた。先生は感謝して大切にして、下さった神様に何かご恩を返して差し上げるのが礼儀だろう?って。
ああ、そうだ、また聖書を音読したり、神様に賛美を捧げて何か声を使ったプレゼントをしようかな・・
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