キリスト教福音宣教会での「洗礼」=「修了」
一般的な教会では「洗礼」という言葉があります。
私たちは「洗礼」と呼ばず「修了」と呼んだりしています。
私が修了式とやらに出たのがウン十年前の12月で、毎年この季節になると、ああ、と思い出すのです。
何年に修了ですか?
私たちの教会で時折交わされるあいさつの一つです。
えっと、、とサバを読んでもごまかせません。(笑)彼らがこの世に生を受けるそれより前に、私はすでに、キリスト教福音宣教会の会員でした。ははは。
ちなみに、修了式という御言葉を聞いた日を霊的な誕生日といったり、礼拝に初めてでた日を記念日として、肉が生まれた誕生日と合わせてお祝いする傾向が私たちの教会にはあります。わたしは肉の誕生日が霊の誕生日なんですよ、なんていう人もいたり、とかく記念日を愛するキリスト教福音宣教会の風物詩があります。この言葉を知っているなんて、ツウですよ、あなた(笑)
なんで今の教会なの?
ほかにもいろんな教会があるじゃないですか?
聞かれなかったことはない、質問の一つです。(わざわざ、異端とかカルトとの呼び声高い教会に何で?)と心の声が漏れ聞こえるわけです。
今日、正直に言いますね。教会に行きたいって思って、たまたま最初に誘われたのが今の教会だったんです。それが8割以上の原因だと思います。行ってみて、特に問題もないし、楽しいし、別にそれで、いいって感じ、、。それをもうちょっと素敵に言うのなら、「縁」っていうことですかね・・。
聖書を開いて、イエス様について信じるなら、そんなに大きな変わりがないって思ってたんですよ。特にカルトだって思ってなかったし。そう感じたこともないし・・。だから・・。ちょっと、クロックスをはいて近所のスーパーに足りない卵何個かを買いに行く、それぐらいの軽い気持ちでここに来たんです。本を開いて読む読書会みたいな感覚でしかなかった。
続けられるところまで続けたらいいや、って軽い気持ちで来たんです。だからまあ、そこまで深く考えているわけではなく、、皆さんの期待に副える答えではないなって、思いますけど、、、ほんとのところ、そうです。
御言葉を聞いて何が変わりましたか?
これ、ほんとプレッシャーですよ。今月に入るまで、内心「いや、別に、何も」と思っていたんです。でもそんなこと言うと、貴重な時間を割いて、頑張って聞いてるんです!って感じなのに、悪いかなって思って、う、うん、また、みたいにごまかしていました。ごめんなさい!
だって、牧師になったわけでもないし、金持ちにもなってないし、有名にもなってないし、結婚もしてない、これ、、どう?こういうのをうちの教会的に「証(あかし)になってない」と言います。
なんでキリスト教福音宣教会に通ってるって正々堂々と言わないんですか?っていうけど、だって、私って、ばーん!みたいなそういうのなくって、今でも相変わらず、普段着感の強いのんびりした私。。この2-3年で教会にきて指導者になりたいんです!って言われる人に押される始末です。
だから、別に特になーって思ってて、いろんな意味で申し訳なかったんです。
永年勤続賞みたいなことはあったんです
いやー、悪いなーって思ってたら総会長牧師さんがある日、10代20代で教会に通い始めて40超えている人、手をあげてみて、とおっしゃってくださいました。申し訳なさそうに、手をあげたら、「何も自分は成功してなくて申し訳ないとか、思う必要ないです。ここまで続けて通ったこと一つをとっても大きな成功じゃないですか!ほめてあげたい」とおっしゃってくださいました。
いい年した大人、どこの世界に褒めてくれる人がいるでしょうか?そうやって長い年月いつも多くの人の真心の祈りをうけて今日この日までこれた、それだけでも豊かな人生だよな、と感謝しました。
愛は完全に与えるものである
いろんな聖書の話があります。いろんな聖書の話をもとにした、説教と呼ばれるバイブルの話があります。
その中で私がずっとこれってどういう意味なんだろうな?と思っていた御言葉がこの「愛は完全に与えるものである」です。
私がボランティアでマスクをあげたい、という友のため、何十枚とマスクを作って送った、と会社の同僚(教会に通っていると知らない)にはなしたら、「えー、製作費は?労力は?信じられないそんなこと頼んでくるなんて!」というのをきいて、
え?うれしいことだし楽しかったんだけどなあ。。と。。思ったとき、はたと気づいたんです。
昔は私も彼女のようにそんなの自分だけが損してるとか、考えてたよなあ、でもいまは、そんなこと微塵も思ってないなあ・・
常々先生がおっしゃることがあるんです。「愛とは与える喜びだ」と。「もらう喜びより与える喜びが大きい」と。今、これが本当にそうだなと思ってるんだ!私!!とちょっとうれしかったんです。これが私の大きな変化。やっと人にいえることができた!と。
10年前この箴言に出会ったときは、がっかりしたのを覚えています。「えー。なんか神様の愛!って感じでもっと神様が愛してるよーって感じで、愛をもらってほっくほっく、ってのがよかったなー」って。与えるよりなんかもらいたいじゃん!って思ったんですよ。
なのに今の私は、困っている人のために、あるいは何かを与えてあげる、そしてそれによって一緒に喜んで楽しんでいるんです。
お金があるわけでも名誉があるわけでも、地位があるわけでも、権力があるわけでもない、だけど、与えてあげたくてたまらない、と思うほど、神様が私を愛してくださる愛で満ち足りているという現実を思い知らされて、心熱くなる瞬間でした。そして、小さいころ、金と名誉と地位をみて、態度を急変させる大人たちを多く見て失望しながら、金でも名誉でも買えないもっと深くて大切なものが欲しいと強く願ってきた教会に来る前の日々を思い出して、改めて感謝する修了した記念の月です。
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