はじめに
この7月、職場は変わらないが一つの区切りを迎えた。ホッとしたと同時に、潮目は変わって、気を引き締めないといけないなと思っているこのごろである。
証(あかし)になる/ならない
私たちの教会だけではなく、証(あかし)という言葉をクリスチャンたちはよく使うと思っている。
神様から頂いた恵みを人に伝えることを「証(あかし)をする」という。 それが派生して、クリスチャンらしく振舞って神様の顔に泥を塗らない、とかそんな意味にも使われる気がしている。
証にならないなと悩んでいる時間が長かった
私は長い年月「証(あかし)にならない」人間だと思っていた。要するに、「ああはなりたくない」と思われているんじゃないか?という後ろめたさがとても強かった。
仕事がめっちゃできるわけでもないし、かといって教会で熱心っていうわけでもないし、性格がいいってわけでもないし、見た目もあんまりだし・・。
それに、教会に通っているのだから、ヒューマンスキルみたいなものが教会に通ってない人より高いのか?っていうとむしろ逆だった。
どうして神様を信じても変わらないのか?
「摂理に来て神様を信じて救われたなんて、おめでたいね」という人がいる。
私は、なんて浅はかな人間なんだろう、と内心馬鹿にしてしまう。そしてそれが相手に伝わって、逆上させてしまうことも多々ある。人間は神様を信じたからといって、いい人間になれるか?というとそうじゃない。
信じる者は救われる、というが違うのだ。「信じて行うものだけが救われる」のだ。だから、努力しない人は神様を信じていても得られないし、努力すれば神様を信じてなくても努力した分の対価は得られる。
神様はマインドコントロールしない
宗教というと、マインドコントロール、そしてそれがカルトという言葉の図式がある。加えて、そこに美しい女性を侍らせて、なんだかんだ、という図式を加えるとこの世の欲望のナンタラで、という変な妄想を膨らませて独自の世界観を作り上げる人が本当に多い。
だが、私は私という人をもってして、摂理は絶対マインドコントロールしてないなと思う。私のこの悪い根性、性格、直したくてもなかなか変わらない。マインドコントロールされるんだったら、とうの昔に変わって良くなったに違いない。そんな簡単じゃない。
いい人間になりたい、そうして成功もして・・そう願うがそんなに甘くないのだ。
「宗教」というのはもともと、「宗」という感じが「おおもと」という意味があり、根本を教えるというのが本当の意味だ。だから、何かを信じておめでたくなることではない。それでは根本が解決しないから、そんなことで済まされないのが神様の世界である。
神様はマインドコントロールをしない。いや、できないのだ。人間の心は神様でも侵犯できない世界だ。ということは御言葉を聞いた人ならだれでもわかっていることだ。
まことの自由
でも、私は摂理という教会でもとりわけ「真の自由人」などと呼ばれている。
それは、誰にも縛られず言いたいことを好きなだけ言って、世の中の人も教会の人も、神様もこの子の言うことだけを聞いてくれて、いつも幸せで悩みがなさそうに見えるから、らしい。
ヨハネによる福音書 8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
私は彼らの嫌味に対して反論はしないが、これからは反論することにしたいと思っている。
私は「幸せで悩みがなさそう」という人が嫌いだ。人は笑顔でいる人ほど、苦闘と苦悶の道を潜り抜けてきた人或いは今崩れそうな胸の内を笑顔で固めて自分を支えている必死な人がいる。人というのはいつも笑顔でいるということは、ただ能天気な人間ができることではなくて、ある程度の哲学を持ってなければ難しいと思っている。
自由も同じで、ただ好きなようにやれば自由を謳歌できるのではない。自由にともなう責任をきちんと果たせる人だけが自由を得られる、と私は思っている。そして、人を自由にして縛らないということは、最も実力のいる話なのだ。
「相手を叱ったり怖がらせたり、権威で引っ張るのは、その人に実力がないからだ」とある時私を担当してくださった牧師が私に言った。
私の経験上、人を怒鳴って苦しめる人に限って摂理は自由じゃないとか、みんなが自分を助けてくれないなどと言う。人って本当に不思議だし、それを見ながら自分もそれをみて自分を顧みて直さないとなと思う。
この10年で思うことがある。
本当の自由は忍耐にある、と。御言葉に合致しているかわからないが。
私は最近、「悩みがなさそうだね」という人達に、切り返すことができるようになった。
「”悩んでます”って言う風にして人に心配をかけたり不愉快な思いをさせないっていう哲学があるから」と答えたり、時には「私は悩みがない人間なんていないって思ってて、悩みがなさそうなんて浅はかなことを考える人の神経が理解できない」と言ったりもする。
そういうと、ごめんね、と謝ってくる。その時思う。人間の深い心に対して教えてくださり、どんな人も見下さず、敬意を払ってくださる先生の姿を思い出す。私の荒涼とした心に人を思いやるやさしさと強さを与えてくれたのも、先生が伝えてくださった御言葉の世界だったなあと。

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