自分を〇〇にたとえると
自分を〇〇にたとえると、なんですか?
という質問を就活の面接でされることがままあるようですね。
電化製品にたとえると?とか
動物にたとえると?とか
文房具にたとえると?
などなど・・・。
聖書にも、人々を体の一部にたとえたお話が確かにありますね・・。
ちえみって何だろう?って思うと、
うーん、眉毛かな(笑)
名前という表現世界
就活で受かるために、って考えると窮屈さを少し感じるかもしれませんが、私達は自分にいろんな名前を付けるのを楽しんでいるようなところもあります。
例えば、
- インターネット上ではハンドルネーム、
- ラジオに投稿するときにはラジオネーム、
- 物語を投稿するときはペンネーム、
- 俳句をするときには俳号、
- バスケットやバレーボールでコートに入るときにはコートネーム、
- ボクシングをするときにはファイトネーム、
- 教会も、そう、洗礼名とかつけるところあります・・
ペンネーム自体がその人の作品だという話だってあります。
自分のありかた、らしさを表現できる最高の芸術が「ネーム」の世界といえるのではないでしょうか?
職場の役職だって、PTAだって、最近は、呼び方からしてキャプテンと呼んでみたり、船長と呼んでみたり、いろいろ楽しく工夫していますよね?
名は体をあらわす(なはたいをあらわす)
名前はその物や人の性質や実体をよく表すものだということを意味したことわざが「名は体を表す」です。
子供が生まれた時親につける本名は一般的には「そうなってほしいという願いを込めて」つけられますから、名前とあまりにもかけ離れた感じの人がたまにいますが、
私達は不思議にも、ニックネームだの、通称や俗称といった、いわゆる異名(いみょう)という、別の名前を付けてその人を呼ぶ習慣が古今東西(ここんとうざい)を問わず古くから存在します。
チンギス・ハーンを「蒼き狼(あおきおおかみ)」と呼んだり、
斎藤道三を「蝮(まむし)」と呼んだりしましたし、
チャップリンを「喜劇王」と呼んだり、
某元メジャーリーガーをゴジラと呼んだり、
有名な役者さんに「三百の顔を持つ男」などと呼んだりもしました。
「〇〇の異名をとる」、なんて日本語もありますが、
異名をみると、本当にその人がよくわかります。
また、自分でつけた名前では黒田官兵衛の「如水」やら、
司馬遼太郎さんのように(自分は司馬遷には到底及びもしないという意味から)、
名前の由来を考えると、また、その人の人となりがわかる名前の世界です。
暗躍(悪い世界で目立って活躍すること)する人達にも異名は与えられますが、
「数多くの異名を持つ」という言葉に代表されるように、
「異名」は注目度や人々に与えた影響の大きさを示すはかりのようなものだと考えていいと思います。
イエス様の異名
イエス様は、イザヤ書やヨハネによる福音書、あるいはヨハネの黙示録を中心に、さまざまな呼び名があります。
「神に遣わされた者」といいました。(ヨハネ8章)、「神の子(マルコ1:1)」、「神の聖者(マルコ1:24)」といわれたり、
「救い主」と呼んだり、「いのちの君」(使徒3:15)や、「いのち(ヨハネ11:25)」などとも呼ばれました。
そればかりではなく、「まことのぶどうの木」とか「よい羊飼い」といって人々を大切にして救うのだといいました。
ほかにもご自身で、
「天から下ってきたパン」であり、「道であり、真理であり、いのち(ヨハネ14:6)」、だといいました。
神の御言葉を伝えて、人々の道を明るく照らす「光」だとも言いました。
ちなみに、インマヌエル、というのも、イザヤ書7章14節に預言されたイエス様の呼び名で、
インマヌエルは二つの言葉、インマヌ(意味:われらとともにいる)とエル(意味:神)を組み合わせた名前で、「神はわれらとともに」という意味です。
弟子たちは、イエス様を本当に気楽に「先生」と呼んでいたことがわかります。
あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。
ヨハネによる福音書/ 13章 13節
といっていますし、墓からよみがえったイエス様にマリヤが「ラボニ!(訳せば先生)」と叫んだことからも、普段から親しみを込めてそう呼んでいたことがうかがえます。
ほかにも数多くの呼び名があります。
あなたがイエス様に異名をつけるとしたら、何ですか?
私はこの教会に来るまで、イエス様といえば「悲しみの人(イザヤ53:3)」でした。
十字架の上で苦しんで悲しんでいるイメージが強くて、正直教会で十字架を見るのがつらく悲しかった記憶があります。
でも、ここで御言葉を学んだ今は、イエス様に対して、「世の光(ヨハネ8:12)」だとか、「勝利」というイメージが強いです。
あたたかくてうららかな春の日差しが凍てついた大地を溶かすような、優しくも強いイエス様が身近に感じられるようになり、世の中をあきらめと失望に暮れていた私の人生にも明るい光が差し込んでいるからなのかなと思います。
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