100分de名著  新約聖書 福音書の回

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100分de名著というテレビ番組を見ました。

NHKの番組。100分de名著という番組があります。

読書家だったのに、高校生ぐらいから「本」というものとは遠ざかっていたんです。

でも、先月の「親鸞の手紙」を取り上げている回を偶然見てみたら、ものすごく面白い。そして、次回は新約聖書というではないですか!いや、これはクリスチャンとしてみないといけないと興味を持ち始めたのです。

昨日は、新約聖書の最終回。

イエス様が苦難を受け十字架の道を行った、そして復活して・・という部分。私が物語を書こうとして1年も書けないでいるその部分だから、物語を進めるヒントを得たいというのもあってみました。

印象に残ったことは

・「イスカリオテのユダ」の立場になって聖書を読んでみるといい

・ユダだけが裏切り者といわれているが、皆、イエスを捨てていったんだ

・イエスはたとえ相手が裏切ったとしてもその手を放さない、

という言葉。改めて聖書を読みたいなと思うと同時に、自分とイエス様の関係について深く見直すきっかけになりました。

「イスカリオテのユダ」の立場になって聖書を読んでみるといい

聖書に親しんで何十年。だけど、ユダの立場になって聖書を読んだことはなかったんです。それではっとさせられました。

ユダという人は、賢く親切で誰からも信頼のおける人物だったとは よく聞きます。事実彼は、国でいう財務省を任されていたわけで、お金に清く、正義感にあふれた清廉潔白な男であったのだろう。けれど、彼は、自分の思い描いている「メシア」とは程遠いと感じ、イエス様のいわゆる教会運営に対する考え方があまりにも違ったというところだと・・。

ユダの心情を吐露しているような本も資料もないので実際のところは分からないけれど彼の悲しみと苦痛は、人間の業(ごう)の深さ、欲に負けた哀れといった人類のテーマののように扱われているきらいがあるように思います。

彼はなぜ、人類の裏切り者と言われるようになったのか、いつか彼をテーマにした物語があってもいいのだろうなと思います。

ユダだけが裏切り者といわれているが、皆、イエスを捨てていったんだ

この言葉はとても印象に残りました。

ペテロも後で逆さ十字架にかけられて殉教するほどなのに、どうしてゲッセマネの園で師匠が血が噴き出るほどに苦しみながら祈っていても横で眠っていたんだろう?

鶏が鳴く前に三度私を知らないというであろう。といわれた言葉の通りに三度知らないといい、逃げちゃったんだろう?

番組の中でも弟子たちはいわば「愚か」と表現していましたが、私自身もそう思っていました。

そして私はそうならないようにしよう、と思って頑張っているつもりなのに、現実は違うんです。私はクリスチャンにになる前、人は「性善説」だと思ってました。だけれど、最近人は「性善説」に基づくんだと思うようになりました。

私が生きるためには、君を捨てなければならなかったんだ、

そう正当化して生きる人間がどれ程多いのか。そして自分もそうなんだと思います。

最近、なぜ、ゲッセマネの園で師匠が血が噴き出るほどに苦しみながら祈っていても横で眠っていられたのか?私なりに、最近、もしかして?って思う、「勝手な解釈」が考え付くようになったんです。

そう、勝手な解釈だけど・・私が考えるに・・(ただの私の個人的な!説ですので教会の御言葉とは違いますので気をつけてください!)

ペテロは、聖書のせの字も知らずについてきて、様々な人達が来ては去りするイエス様のそばで肉体的に疲れていたのが眠った理由の一つ。

もう一つは、彼は、自分の大切な先生がまさかあのような極的な苦痛の道を行かれるということが想像できなかったのじゃないか?と思うんです。

最後の晩餐で、そのような道を行かざるを得ないとイエス様は確かにおっしゃった。だけど、そんなはずはないとイエス先生をいさめ、こともあろうにイエス様に「サタンよ引き下がれ」といわれてしまった。この時イエス様は、この人は状況が飲み込めていない、つまり歴史の流れ聖書の流れがわかってないので先が読めてない、つまり事態の深刻さが飲み込めてないとわかったんじゃないか?と思うようになったんです。

ペテロの想像をはるかに超える出来事が起こって、殆どパニックだっただろうと思います。

聖書を読む読者は、ゲッセマネの園で寝ていた弟子たちを「愚か」というけれど、信仰が深くなればなるほど、ペテロという弟子は本当に偉大だったなとしみじみ思います。

イエスはたとえ相手が裏切ったとしてもその手を放さない

裏切った人達の手を離すことをすまい、とイエス様が思っていたのではなくて、メシアだから手を離すことができなかったんだと思います。

私はイエス様が許すというのが実はあんまり好きじゃなかったんです。さんざん悪いことをしても人生の最後の日に悔い改めればみんな天国に行けるって言うけど、私は許したくないよ、って思っていました。いじめる人間、人を陥れる人間は皆、「そうしないと自分が生きていけなかったんだ」と言います。私はいつも「だからって相手を死なせていいのか?」と思っていました。だから、イエス様の赦しということがほんとに理解できなかったし、ルールを守って秩序正しく生きるほうが絶対お互いに言いにきまってる!と思ってきました。その点では私はイエス様とはほんとに意見が違う!とどこか怒りながら生きてきたかもしれません。

でも、イエス様につまずく人の多くが初めは、「あなたはメシアなのに、どうしてそんな悪い奴を許すのですか?」というところから始まるのかな?と思うことがあります。

「私につまずかない人は幸いである」と聖書にあります。イエス様は手を離さないのだから、イエス様を信じたらハッピー、って思ってきましたが、自分にもっともよくしてくれる人をいとも簡単に捨てたり、踏み台にするのが人の性(さが)だなと思うことがあるんです。

考えは広がっていくけれど・・そろそろこの辺で・・。

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