美しい文学の代表格 詩編
聖書はね、文学の書だよ、と教会で講師たちが口をそろえて言います。
文語訳が盛んに出回っていた時代、日本の文壇に数多く登場したのが俗にいうクリスチャン作家。
特に、
イザヤ書、詩編、雅歌書は美しいといわれてきました。
今日はダビデ王が書いた「詩編」についての豆知識。
ほら、あの彫刻の人です!ダビデ
ダビデ王って、聖書を読まない人でも結構ご存じな人が多いと思います。
ほら、、美術の時間に写真とかで出てきた、ちょっと今ならば恥ずかしい、、肉体美の、
ミケランジェロが作った彫刻の人です。
イスラエルの王が出てきた経緯
そもそもイスラエルはアダムとエバの時、初めて神様を信じるようになりました。
その後、2000年ほど経過したアブラハムの時代、
なんとアブラハムは、偶像を作る家の子(今でいう仏像屋さんの息子)で、結婚までしていましたが、神様に呼ばれて、カルデヤのウル(地名)というところから、カナンに引っ越します。
そこから、なんやかんやありまして、
アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフと4代続けていく中で民族的な宗教としてユダヤ教が興るようになりました。
その後、ヨセフの時にエジプトに移り住んで、400年奴隷になっちゃって、
その後モーセが出てきて、エジプトから、アブラハムのいたカナンへ戻ります。
そこから、「預言者」と呼ばれる、(予言ではないです)、「神様の言葉を預かる人」が出てきて民に神様の言葉を伝えたりしていましたが、
さらに進んで「士師」と呼ばれる、「政治家」と「宗教家」の両方を一緒に行う人(口語訳では「さばきづかさ」と訳しています)が出てきて活躍します。
このころ、諸外国では「王」が出てきて政治的なことを取りまとめるようになりました。
いわば政教分離というやつです。
イスラエルの民も神様に、
宗教的なことと政治的なことを分けて、政治的なことをまとめる王がいたらいい!と
求めたので、じゃあ、王を選ぶか!となって王が出てきたのです。
サウルからダビデへ、そしてソロモンへ
この時代の大預言者「サムエル」が王を選びに行きます。
この時一番最初に王となったのが「サウル」王。
キシという人がお父さんでしたが、とにかく背が高くてかっこよかったみたいですね。
いろんないきさつがあって彼が王となります。
ところが、このサウルさん、預言者サムエルの言うことを聞かない聞かない。
それで、サムエルが遅れたから、ええい、私がサムエルの代わりに神様に礼拝儀式とかやっちゃうよ!
とかいって、勝手にやってしまいます。
今風にいうのなら、経理を通さずに勝手に経理の人のハンコ押しちゃってビジネススタート!みたいな・・。
それで、今度は違う人を、ということで後から王になったのが「ダビデ」
さぞかしカッコよさで目立っていたんだろうと思っている方もおられるでしょうが、
ダビデ王の前の王様「サウル王」のほうが背が高くてイケメンだったのです。
エッサイという人の8番目の息子で、
サムエルが「エッサイさん、エッサイさん、あなたの息子の中に王がいるっていうんであわせてください」といってエッサイのお家を訪ねていったときも、父エッサイは、あの子は幼すぎるだろう、背もちっちゃいし!見た目もべっつにね、と思って、
ダビデくん、外で遊んでなさい♪
と蚊帳の外だったのですが、
まさかまさか、
のダビデ君、本命!やったわけです。
ああ、前置き超長い。
それで、彼が王として選ばれたけど、
はい、交代ね!なんてサウル王がその座を明け渡してくれたりはしません。
最初はサウル王が悪霊に悩まされてつらい時、ダビデ王がたて琴(楽器)を演奏すると悪霊が出ていったり、
外国から敵が攻めてくる、というわけで、ダビデ王にサウル王が軍服を貸してくれたりもしてました。
(サウル王の娘をダビデ王の嫁にしたりもしたんですけどね)
でも、ぶかぶかだから、ええわ、ふつうの恰好で行く、なんてこともありつつ、敵を倒して
民衆がダビデ王ビバ!ってなってきて
サウル王がジェラシージェラシージェラシー!
そこから、ダビデ王を殺せ!ってなってきて、
ほんとに戦い戦い、戦い、命を狙われていつも大変、そんな状況がずっと彼には付きまといました。
苦しみと絶望の中の一筋の光
そんな苦しみの中で神様を賛美しながら書いたのが「詩編」です。
だから、もう死ぬ間際に、最後に神様に感謝してから死ぬわ、そんな状況で書いたものがほとんど。
そのような究極の状況で走り書きのように書いたことでしょうが、その中で音のしらべとしても、意味としてもあり得ないほど素晴らしい詩が彼を通して出ていきました。
この文学性を超えられる詩人って、ほとんどいないのでは?
この文学性の高さがどれほどなのか、続編2をお楽しみに。
息子ソロモンへ
戦いに明け暮れすぎたため、神様はダビデ王に聖殿(神殿)を建築することを許してくれませんでした。
多くの人の血を流した人には建築する資格がないといわれてしまったのです。
それで、材料だけをそろえておいて、建築は息子のソロモン王が行うことになりました。
それが、現在の「嘆きの壁」
イスラエル最高の聖殿を作りましたが、イエス様の死後70年ごろ破壊され、
そのうえにイスラエルの寺院モスクが建てられており、
当時の壁だけが残されているため、ユダヤ教の人々がそこで嘆きながら祈りをささげているという壁なのです。
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