祈りの日々
ガリラヤへ戻るとイエス少年はますます律法の書を読み、祈りを深くしました。
イエス少年はいつしか、夜になると洞穴に入って祈るようになりました。
時には何日も家に帰ってこない日々もありました。
心配した母マリアがイエス少年を探しに行くと、
一人涙を流しながらひざまずいて祈っているイエス少年を見つけました。
あまりに深い祈りを捧げている姿に声をかけることもできずそっと出ていくことも多くありました。
湧き上がる疑問
「わからぬことがあれば遠慮なく私にきけばよい」
祭司長たちがそうもいってくれましたから、
「それでは」と、イエス少年は溢れるような質問を投げかけました・。
「メシアが火でこの地を焼き尽くしてしまったら我らはどこに住めばよいのですか?」とか
「雲に本当に人は乗れるのでしょうか?」とか
「羊や牛を捧げて神は召し上がることができるのでしょうか?」など、
祭司長たちが答えに困るような質問ばかりです。
それで祭司長たちは苦々しい面持ちで
「少年よ、神のおっしゃる御言葉にそのようにあれこれといってはなりません。
ただただ、従うのみです。それが神のしもべとしての我らのつとめです。」
ということしかできません。
さまざまな疑問がわいては聖書を読み、祈り、そんなことを何度も繰り返しているうちに、人々は時に「イエスは気ちがいだ」と言いました。
父ヨセフはイエス少年に時折雷を落としました。
「神は勤め働くものの手だけを豊かにしてくださるのだ。 祈ってばかりいてそれが何になる? 神のことばばかりを知っているからといって、我らのこの生活に何の有益があるんだ?」
しかし、イエス少年の神様を思う心は一層募るばかりです。
こうしながらあっという間に月日は流れ、少年イエスは20歳を過ぎ、30歳近くになろうとしていました。
メシアを待つ日々
会堂では祭司たちが「来たるべきメシア」についてたくさん話をしました。
メシアは火と剣をもってやってきて、神を信じるわれらイスラエルを苦しめるものをことごとく滅ぼすだろう、
メシアは雲に乗ってくる、
口々にそういいました。
火や剣をもってくるなんて、少し怖いなあ・・
そう思いながらも
イエス少年は重い荷を背負いながらふと空を見上げてはあの雲、この雲を探しました。
山で人の足跡のようなものを見つけると、
もしかして、メシアがいらっしゃっているのか?
と、ダダダっと足跡を追っていったこともありました。
盗人のように誰にも知られずに密かにいらっしゃると聞いたが・・
道がわからなければお困りにならないのだろうか?
私が一番最初にメシアに出会いたい。
誰よりも私が神様を愛している、そう神に認められる人間になりたい。
それはイエス少年に許されたたった一つの切なる願いでした。
救いとは何だ?
イエス少年は深く考えました。
人間は馬より速く走れないし、らくだより多くの重たい荷物を持つことができない。
一体人間は何が優れているのだろう?
そうして一日考えて、人間の「考え」が動物より速いのだという答えを導き出しました。
神が天地万物を人間のために創造したというのなら、どうして人間の人生はこれほど短いのだろう?
一体この地に人間が生きる意味とは何なのだろう?
そのように考えているうちに、人間には「霊」があるということを発見したのです。
この世には貧しい人がいて、金持ちがいる。
金をもって豊かに暮らしたらそれで満足なのか?心は満たされていない。根本的な霊が生きてこそ神様を知り、本当の意味で生きたといえる、
そうわかるようになったのです。
そのうち、イエス少年は思いました。私が救い主になりたい。
私が救い主になって、私という人生をかけて、救われたいと思っているすべての人のために自分を捧げたい。
祈っておきながら思いました。
そんなことができるだろうか?
しかし、救いがどれほど重要なのか、悟らずにはいられなかったのです。
そのような深い祈りをささげる毎日が続く中で、いつしかイエス少年は神様を対話するようになりました。
最初は、もう一人の自分が話していると思っていましたが、その声がいつしか、自分とは違う考えではっきりと心に響いてくるようになったのです。
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