規定の病

聖書が書かれた時代は、格差社会

パラリンピックも間近に控え、世界はより多様な人々への相互理解が深まっています。

聖書が書かれた多くの時代は、まさに、格差社会でした。

人種差別、
男女差別、
身分の違い、
身体的なハンデを抱えた人に対する差別、

それらは、聖書の舞台に限らず数多くありました。

王が死ねば、王と共に生き埋めにされたり、
王が死ねと言えばその場で死ぬ、など、
今とはまるで違う世界に暮らしていました。

民族や身分が違えば、顔を見ることすら許されませんでした。
日本でも、直訴(じきそ)といって、農民が殿様に直接手紙を渡したら、受け取ってもらえても、死ぬ運命にありました。

そんな時代、身体にハンデを抱えた人たち、病に苦しむ人たちは、神に呪われている、とか、今では考えられないひどい扱いを受けていたでしょう。

あわれみといつくしみの王、イエス

だから、イエス様が病を治して行かれる中で、彼らに出会い、真なる友として付き合うなどとは、あり得ない話でした。

また、イエス様の時代は、女性蔑視は激しく、男女同席で何かの集まりに参加、などというのは、あり得ませんでした。

ですから、イエス様は、いわば人類初の女性解放運動家とも言えるわけです。

「規定の病」と訳される前は

さて、規定の病、とは、2009年まで、らい病と訳されていました。
らい病とは、ハンセン病のことで、
日本でも、数多くの人がこの病気により言われなき差別を受けたのです。

それで、らい病→2009年に、重い皮膚病に改訳されたあと、2018年に規定の病、と訳されるようになりました。
2009年には、
目しい→盲人、
耳しい→耳が聞こえない人、
に訳が変更になりました。

差別用語についての賛否両論

先日、某テレビドキュメンタリー番組で、
かつての時代背景を正確に伝える意味で、一部差別用語が使われています。ご了承ください、
とのお断りが番組冒頭にありました。

たまに、考えてしまいます。
差別はいけない。

けど、今のように完全に差別用語をなくしたら、
聖書に出てくる、
今のような、多様な人々を理解する世の中とは違う、あね時代に生きた、人としても扱ってもらえなかった彼らの苦しみと切なる生き様、
そこに迷いもなく入っていかれて、多くの偏見と真っ向から戦い、人々を平和に導いたイエス様の息遣いを、どれだけ感じとれるのだろうか、と、、

人は、殴られたことより、言葉で殴られたことをよく覚えているのです。だから、人を傷つけるような言葉を使ってはいけません。

総会長牧師がよくおっしゃることばです。

聖書にも、舌を制しなさいとあります。だから、人は、誰であれ、素晴らしい尊厳が守られるべきですが、

差別に苦しんだ彼らの嘆きと叫びを、

また、

そのような彼らに、尊厳の扉を開いてくださった方のこと、

を忘れないで生きたいです^_^

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