イスカリオテのユダとドクダミの花

聖書の人物

どくだみの花

どくだみの花が咲く季節になりました。

どくだみやこの世のユダの数ほどに 

鷹羽狩行(たかは しゅぎょう)

私の中でインパクトが強くて忘れられない俳句の一つです。

調べてみると鷹羽狩行(たかは しゅぎょう)さんという俳人の作だとわかりました。

1930年のお生まれで、現在もご存命でいらっしゃるようです。

どくだみの花は十字架のような形で咲くのでイエス様を連想させますし、

どくだみは、繁殖力の強い植物で一体に独特のにおいをまき散らします。

”どく”って毒を連想させますしね・・

十薬(じゅうやく)という別名があり、実際は漢方薬で使われたりもしているし、和製ハーブとして有用な植物という一面もありますけれども^^

それで今日は、この俳句に出てくる「ユダ」を取り上げてみることにしました。

聖書に出てくるユダ

裏切りもののユダが有名ですが、Bには実に多くのユダが登場します。

創世記のユダ

創世記にさかのぼれば、ヤコブの長男「ユダ」、ちなみに、ユという発音はJuですから、ジュとかジェといった発音をするところも多いです。

イエスと言っていますがジーザス、ですよね・・

ジュダ、なんかSF映画に出てきそうな名前ですよね(すみません、話がそれた)

さて、ユダという意味は”神に感謝する”という意味を持っています。

ヤコブの12人の子供が12の支族となって、イスラエル社会を構成していた(いる?)わけです。

イエス様自身もこの「ユダ族」の流れを汲んでいるわけです。

使徒ユダ

ちなみに、12使徒には「ユダ」は2人いたため、「イスカリオテのユダ」と修飾する言葉がついているのです。

「イスカリオテのユダ」とは別の、もう一人のユダは別名タダイといいました。

このユダ(タダイ)が新約聖書の「ユダの手紙」の作者です。

聖書ってこういうところがややこしいんですよね(汗)

とはいえ、使徒でしたから、二人ともとても優秀な人物であったと考えてよいと思います。

12使徒とは、イエス様が生きておられた時についてきていた弟子の中から12人を選び出しています。

しかも徹夜の祈りの末に。です。

選ばれるぐらいの信仰やそのほか様々な実力を持ち合わせていたといっていいのです。

少し補足すると「使徒」としては

イエス様の生前にイエス様が直接選んだ人 12人を12使徒といいます。

但し、この12使徒の中の一人「イスカリオテのユダ」は使徒でなくなった為、

イエス様の死後数人の候補者の中から「くじ」で選ばれたのが「マッテヤ」と呼ばれる使徒です。

13番目の男とでもいいましょうか・・

その後、記録としては「使徒」と呼ばれる人は「パウロ」だけがそう呼ばれています。

どういう仕組みで使徒になったのかはわかりませんが、

パウロという人物はいろんな意味で他の使徒とは違いがあります。

裏切り者のユダとはどんな人物か?

ユダの生涯ざっくりと

「イスカリオテのユダ」を別名「裏切り者のユダ」といいます。

”イスカリオテ”とは地名のようです。

日本も昔、農民たちは苗字がなく、〇〇村のナントカべえさん、とか言っていたのと同じ感覚なのでしょう。

このユダは、イエス様を反対する人々と内通しており、イエス様を引き渡した報酬として銀貨30枚を受け取る人物です。

この引き渡しがあってイエス様は裁判(もちろんえん罪)にかけられ、十字架刑を言い渡されてしまいます。

無実の罪、仮に多少法に触れることがあっても十字架の刑に値しないことは誰もがわかっていることでした。

ですから、ピラトが1人は許せるんだ、といってなんとかイエス様を生かそうとしたわけです。

「バラバ」を許してやるかそれともイエスか?といって。

「バラバ」なんて・・今でいう連続何十人の凶悪残酷殺人犯ですから、そんなのを市中に放ったら大変なことになるわけです。

それでも、バラバを許した方がいいんだよ!と熱狂しているイスラエルの人々にあきれ果てて、

「お前ら無実の人をそんなことしてお前らの信じてる神に恥ずかしくないのか?」

といったら、

「俺らが責任取るよ。子孫代々にね!」と高らかに叫んでしまったわけです。

SNSとかテレビとかない時代でしたが、余りにも多くの人が詰めかけて、大騒ぎになったわけです。

この騒ぎをみて、ユダは自分が今まで尊敬してきた師匠を死においやった、という深刻な事態を作った張本人ということを悟り、慌てます。

そして、ユダが「お金返すよ!」と祭司長たちのところへいきましたが、

祭司長たちは、「どうもお世話さまだねえ!その金は受け取れないよ。師匠も返さない」と返金を断られ、自分の立場状況のみならず、いろんなことに完全に絶望して、祭司長から受け取ったお金を神殿に投げ込んで首吊り自殺を図る、というみじめな最期を遂げた人物です。

イエス様は彼に、「生まれなかったほうが良かった」とおっしゃいました。

この真意をどう測ればいいのか、本当に深い一言だなと思います。

お金にまつわる疑惑

イスカリオテのユダがお金にまつわることで心が揺れていき、変質していくようになった、と考える人が一般的には多いです。

そうなる背景には、ユダは、今風に言えば「会計」を任されていたことがあります。

12使徒の中でも特に信頼を置かれていた人物だったのでお金を任せた。だけど心変わり。。

クリスチャンたちが「お金って卑しいよねえ、」と考えたこともユダと関係があるのかもしれません。

クリスチャンは「お金を扱う人=卑しい人」というイメージが強く、金融の仕事をしたがらなかった、そこにユダヤ人が入っていった(入っていかざるを得なかった説もありますが)ことで金融の世界をつかむようになり、それが世界の大富豪にユダヤ系の人が多い事につながってきているようです。

歴史ってすごいっすね!

お金を着服していたのはイエス様を売り飛ばした一回ではない!と主張する人の根拠が、マグダラのマリアの「香油の壺」事件にあります。

マグダラのマリアが、高価な香油をイエスの足にぬりました。

当時、香油の壺を割って油を塗るというのは、一般的には結婚した夫に行う行為でした。

婚礼の時に持っていく用具だったと考えれば高価な品だとわかるでしょう。

こういったマグダラのマリアの行動が、現代にいたるまで イエス様はマリアとできていた、などといった憶測を呼ぶきっかけになっているようですが、(そういう映画もなんかありましたよね。。。)

しかし、反対するユダも”マリア!お前イエス様とできてんだろう?”などとは言いませんでしたから、マリアも一人の弟子として同等に扱われていたと考えるほうが良いのかなと思います。

もっとも、その時代、男女が平等に扱われるということ自体とても画期的なことだったと思いますが。

マリアとしては、メシアとしてのイエス様を完全に悟っておこなった行動だったと思われる、

そういう状況だとここでは決めた状態で話を進めていきますね。

その場にいたユダは、「カネ!カネ!カネ!」とお金のことを取りあげて怒ったわけです。

「俺ら貧乏なんだからさあ、その香油を売って献金してくれたほうがよっぽどよかったんだよ。なんでそんな贅沢するんだよ!」といいたいわけです。

一見、なんか道理にかなっているように見えて、実際は自分がお金に対してやましいことがあるから、こんな風に言ったというわけです。

つまり、会計係としてお金を着服するなどの不正をしたのでは?と後から疑われた向きがあるということです。

善人づらしてな・・

現代のユダ

後で分かってそうやって避難される、そういう人、現代でもニュース見てるとよく出てきますよね。

そして、学校でも職場でも地域社会でもいじめとか、ハラスメントとか、暴力とかいろいろ出てきます。

君の為だといって、

一見あっているかのようで

正しい善人のようで、

最初は理想に燃えていて

善の心に満ち溢れていたけれど

純粋なその心を捨てていかなければ

この世でどうやって生きていけるというのか

といって

自分を助けてくれた人を蹴落として

いばらの中をかき分けていくうちに

気がつけば

自分を利用するあくどい人達だけが周りにいて

追い詰められて

みじめな結末を迎える

悪は最後には滅びるんだ、といいますが、、

裏切られることも裏切ることも

人に蹴落とされることも蹴落とすことも

悲しくみじめなことだなと思います。

どくだみの花の季節になると、深く考えてしまうのです。

薬10種類にも匹敵する様々な薬効がうたわれ、

有益をもたらすこのどくだみも、

道を一歩間違えばタダの「害となる植物」として扱われる。

曇り空の下に咲く美しい白い花を摘みながら

この世のユダが多く生い茂らないでほしいな、と想いを馳せる梅雨時分です。

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