コイネーギリシャ語と七十人訳聖書

聖書の知識

聖書の原語として名高い「コイネーギリシャ語」ヘブライ語からの変遷は、紀元前400年から200年ほどの間の政治的な情勢と深くかかわりがあります。カタカナばかりですが、まとめてみました^^

ディアスポラ

歴史的な用語で時折聞いたことがある方もいらっしゃるかもしれませんが、
ユダヤ人社会が海外に離散することをさしてこう呼びます。
戦争や捕虜として、といった形でユダヤの歴史は外国へくびきをかけて囚われの身となる歴史が長く続きましたが、アレクサンドロス王の時代付近では、アレクサンドロス王の率いる帝国に組み込まれたおかげで、エジプトやアレクサンドリアへの移住がかなり多かったといわれています。
流浪の民として名高いユダヤの民ですが、この当時は経済的な発展を求めて自主的に移動している人がかなりいたことが史実からわかります。

シナゴーグの建設

エルサレム聖殿を離れたユダヤ人たちは、各地で「シナゴーグ」と呼ばれる集会所を持つことになります。口語訳聖書では「会堂」と翻訳されています。
これはギリシャ語で「集まりの家」という意味です。
エルサレムの方角へむあかって、長方形のホールに長椅子が並べられて、正面の壁には御言葉をかいた巻物が納められ得ちました。
教会の長椅子と似た形はこのころから始まっていたといえるでしょう。

ここでは、動物を裂くといったいけにえの儀式は行わず、律法(つまり御言葉)の研究をしていました。

言葉の壁

法はヘブライ語、
その後、バビロン捕囚以降、ペルシャ帝国の影響もあり、アラム語が使われ始めていました。

というわけで、御言葉を学ぼうとしても、難しかった為、最初、「アラム語」の聖書が流通し始めました。
しかし、エステルやネヘミヤの時代に隆盛(りゅうせい)を極めたペルシャ帝国でしたが、ペルシャは常にエーゲ海を挟んでギリシャとにらみ合い対立してきました。
そして、ついに、紀元前333年ごろ、ギリシャのアレクサンドロス王がペルシャのダレイオス(ダリヨス)3世を破り、その2年後ペルシャ帝国は滅亡します。
更に、紀元前323年ごろにはギリシャのアレクサンドロス王が死んだことで今度はギリシャで後継者争いが激化します。
結局政治的には分裂してしまいますが、文化的影響力は強かったといわれています。
ここで、交易や政治、芸術の世界ではコイネーという特定の方言であるギリシャ語が共通語になりつつありました。

というわけで、アレクサンドリアなど海外へ移住したユダヤ人たちは、古い言葉がほとんどわかりません。

七十人訳聖書のはじまり

そこで、今度は「ギリシャ語」の聖書を作るしかない!というふうになります。

とはいえ、聖書翻訳事業というのは簡単ではありません。が、紀元前285年から246年にかけて即位していたギリシャのプトレマイオス2世フィラデルフィオス王の発案で翻訳が始まります。
牢に閉じ込められている政治犯であるユダヤ人に、聖書を翻訳してくれたら釈放してやるといった話を持ち掛けて出来上がったといわれていますが、正確な史実かどうかは疑問が残るそうです。
というのは、七十人聖書はアレクサンドリア地方の方言がかなり強いため、ユダヤ人のなんとか、というのは宗教的な信頼性を高める目的だったのではと言われています。
いずれにしても、このようにして、モーセ五書から始まり、すべての旧約聖書をコイネーギリシャ語に翻訳する事業が完成しました。

このあたりの記録がちゃんとのこっていたら、、と思うと少し残念な気もしますが、、この言語背景はイエス様の当時まで続いていくことになります。

政治的には、ローマ帝国がおこり、ヘロデ王が即位し、イエス様の生まれたときぐらいまでは、イスラエルの民は、まるで乙女のごとくに、夜明け前の激しい歴史的な慟哭に臥せっていたといっていいそんな時代でした。ですから、夜明けの一番星のように、暗闇と悲しみに終わりを告げるメシアの存在をもっと深く待ちわびるしかない涙の祈りが時代を超えて紡がれていきました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました