聖職者たちの世界
「世襲」という考え方が随分と薄くなった現代の日本ですが、つい最近までこの考え方は強く残っていました。
現在でも、歌舞伎や、天皇制等には「血統」が重んじられており、決して昔の話ではありません。
世界中どんな宗教、民族も、神様に近い人々というのが決まっていました。
日本でも神社等で神事を行う時、みそぎといった清めを行う風習が今も残っています。
キリスト教でも、血統ではないにしろ、聖職者と呼ばれる人以外は教会の壇に上がってはいけない、等、明確な決まりがあります。
聖書の世界では神事を行う代表的な部族として「レビ族」があります。
レビ族以外の人は原則、神様の前で礼拝を取り仕切ったり、賛美を歌ったりすることはできませんでした。
レビ族の歴史
レビは元々、創世記に出てくるときには、妹の為にといって父の命に背いて人を殺してしまったため、「暴虐の剣で私を悩ませた」と父ヤコブに言われてしまいます。
しかし、その後彼らの子孫であるレビ人(レビ族)は、モーセの時代、本来神に奉仕すべきイスラエルの民が金の子牛の偶像を拝んでいたとき,レビ人は神の言葉に対してきわめて忠実であったため祝福を与えられ (出エジプト記 32・25~29) ,祭司族となりました(申命記 18・1)。
なかでもアムラムとヨケベデの子,モーセの兄アロンの家系はレビ族のうちでも最も指導的な地位を与えられた (民数記3・6~10,18・1~7,歴代志上 23・13) 。とされています。
神様の宮で賛美をすること以外にも、神様の宮に収める様々な彫刻等を作る仕事もレビ人が受け継いでいました。今風に言えば宮大工ですね^^
傷があってはならない
旧訳時代は神様の前では様々な捧げものをしました。
それらの捧げものに傷があってはならない、と言われているのと同様、
レビ人も傷があっては神事に当たることはできませんでした。
世襲を恨んで嫌だと思っているレビ人は指を切ってしまったりしたといいます。
神事を行いたくなかったからです。
ナジル人
しかし、レビ族以外の人でも、神様に自分を捧げて生きることが可能でした。
彼らをナジル人といいます。
ナジルとは「聖別された者」という意味です。
彼らは自分が請願を立てた期間だけ祭祀のような勤めを行なうことができました。
尚、本人ではなく、親が請願をたてて一生と約束して一生を神様に捧げるナジル人もいます。
民数記6章にナジル人の事が詳しく出てきますので読んでみてくださいね^^
ナジル人、サムソン
ナジル人として実名がしっかり残されている人はサムソン一人です。
サムソンについてあまりご存じないかもしれませんが、
聖書に出てくる「男と女の物語」として必ず出てくる一人です。
女性により、悲運の死を遂げる士師(口語訳では「さばきづかさ」と書かれている)、サムソン。
サムソンとデリラ という映画もありました。
彼はものすごく力持ちで、彼をとめる為にデリラという女を使わして彼の力の秘密を聞きまくるという話です。結局、最後に彼は秘密を教えてしまったために、力が抜けてしまい、囚われて最終的にはいろんな人を道連れにしますが、要は死んでしまうという物語です。
3度も騙しているデリラにサムソンが心を開いてしまうさまや、デリラが皆がこわがっているサムソンに色気で近づいていくさまなどが人間臭くてドラマ性が高いからでしょうね・・。
彼が最後に教えてしまう、彼の力の源は「髪の毛」。
なぜ髪の毛に力があったかというと、彼は「ナジル人」だったからです。
ナジルびとたる誓願を立てている間は、すべて、かみそりを頭に当ててはならない。
民数記6章5節
とあります。
だから神様との約束を破ってしまうことになり、力が抜けてしまったというわけです。
サムエルはレビ人か、ナジル人か?
かみそりつながりで、
ナジル人ではないか?と噂される聖書の大きな人物に 預言者サムエルがいます。
彼はサウル王やダビデ王の時の預言者でした。
彼の母 ハンナは子がなかなか生まれず、真剣に祈っている中で次のように約束します。
そして誓いを立てて言った、「万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、わたしを覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜わりますなら、わたしはその子を一生のあいだ主にささげ、かみそりをその頭にあてません」。
サムエル記上/ 01章 11節
かみそりをあてないと誓っているので親が定めたナジル人だ、と言う人もいますが、
彼の系図をずーっとたどっていくと、レビに当たるようです。
いずれにしても彼は生まれたらすぐに、母ハンナが神様と約束した通りに、祭祀エリに預けられて育つようになります。そして、10歳にして預言者として神の声をきき始めることととなり、大預言者として成長していきます。
サムエルは、「士師」の時代を終わらせ、「王」をたてるようにした預言者です。
少し難しい言葉でいえば「政教分離」を行った人物でした。
いわば宗教的な指導者である「預言者」の役割と、政治的な指導者である「王」の役割を兼任していたのが「士師」でした。
しかし、サムエルの時に、民の願いに従って政治的な指導者である「王」を別に擁立することになったわけです。
これ以降の歴史では、エレミヤの時のヨシヤ王、エリヤの時のアハブ王、など、預言者と王が同時代に登場するようになります。
レビ記なんてつまらない、と思わないで読んでみると、その後の聖書の疑問が少し溶けてくるかもしれませんよ^^
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