イエス様物語(12) ~霊の命~

Bible Study

人はパンだけで生きるのではない

イエス様は手を置けば病人が治り、さまざまな奇跡も起こしましたから、人々はたくさんついてきました。
しかし、イエス様の説教を理解する人は多くはなく、ただ自分の問題を解決してもらうことばかりを望んでいたのです。

イエス様は、人々が皆お金で買えるものにあまりにも気をひかれて生きているのを知っていました。
メシヤを待ち望むのも、皆自分の目の前の問題を解決してもらいたい、あるいはお金持ちになることだけを考えていると知っていました。

お金がなければ生きていけない、食べるものがなくては生きていけない、それはイエス様ご自身もよくわかっていました。
イエス様自身が神様の言葉を伝えて歩いても、弟子たちとともにわずかなパンを分け合って食べる生活だったからです。

イエス様は幼いころから命の大切さを身に染みてわかっておられました。生きていくために食べなければならない。
けれどもイエス様は、どのような状況であれ、「お金があれば幸せだというのではない」と知っていました。

働けばお金が得られ、食べたいものを食べられる。けれど、そのようにして食べたいものを食べ、温かいところで眠り、この世のすべてのことを享受しても、心はむなしくつらい、ということを知るようになったのです。

そうして、人の一生には食べること、着ることよりもっと大切なことがある。
人の肉体は食べて終わるが、その中にある「霊」という存在を発見したのです。

人間は肉体だけで食べて寝て、成長して老いていつか死んで終わるのではなく、肉体を生かしている間に「霊」を体の中に宿して生きているのだと発見していたのです。

その霊が神様と通じて様々な新しい発見を得たり、人間らしい心を取り戻して生きる時、多少貧しくても、苦しくても、喜びが得られるということを悟っていたのです。

霊を知らないのなら肉に何の意味があるか?

しかし、人々はいつも目に見えるものばかり、目先のことばかりを追いかけていました。

それでイエス様は人々の心を時にインパクトのある言葉で刺激しました。

あなたがたが金持ちになりたいのか?
それなら金を追いかけようとするな。
今日金持ちになって、明日死ぬなら何の意味があるのか?

知らなければ滅ぶ。知らなければ馬鹿な人生を生きてしまう、苦労して。そして、知らなければ地獄に行く。分かったら天国に行ける。分かったら金持ちになれるし、いい人生、素晴らしい人生を生きることができる。

霊というものがないのなら、肉体の人生など何の意味があるか!
生きているというが、実際の本質的な自分は死んでいるんだ。とも言いました。
本来の価値、生き方を取り戻そう!そのためには自分が神様からいただいた本質的な命、霊の命を再び生かすことが必要なんだ!と強く話しました。

しかし、人々はなかなかピンときませんでした。
むしろ、そういった話をするイエス様を嫌がる人さえいました。
金持ちにしてくれるのがメシヤじゃないか!
私の憎む人を成敗してくれるのがメシヤじゃないか!
それぞれの人々が考えるメシヤ像をイエス様にぶつけ、文句ばかり言いました。

それでもイエス様はどんな権力にも圧力にも屈せず、ただ、神様の御言葉を伝え続けました。
いつかわかる人が出てくるはずだ!そう思って様々な人を探していたのです。

ニコデモとの出会い

とりわけ、ユダヤ教の指導者たちに期待もしていました。
聖書に詳しくて、祈りをささげてきたのなら、私の話をきっと分かってくれるはずだ!と思っていたのです。
なぜなら彼らは、ネックレスに聖書の言葉を書いていたし、聖書の言葉を暗唱して、泣きながら祈りをささげていたからです。

しかし、イエス様の考えとは異なり、ユダヤ教の人々は話すら聞いてくれませんでした。
身なりが貧しいとか、田舎の出身だからとか、身分の低い人たちと一緒にばかりいるとか、見た目ばかりを気にして話を聞くまでもなく、絶対に間違っていると誤解していたのです。

そのような中で、ある日ニコデモというユダヤ教の指導者が夜遅くに訪ねてきました。
皆があまりにもイエスを排斥するので、きづらいけれど、それでもその説教に人々が多く集まっているので、話を聞いてみたくて人目を忍んでこっそりとやってきたのです。

弟子たちは聖書を一度も読んだことがない人がほとんどでしたから、聖書を開いて話をすることができなかったので、思う存分聖書の話をしながら深い話ができると期待して、疲れている体をおしてニコデモに特別にあうようになりました。

人生の話、さまざまなお互いの話をした後、神様の存在や霊について語り始めました。
ところが、ニコデモのような聖書に精通した人でさえ、人間の肉だけがすべてではないという話には、目をぱちくりさせて、理解できずにいました。

ニコデモは言いました。「イエス先生、人間は一度だけ生まれて死ぬではないですか?もう一度生まれるといったって、私たちの大きさでは母のおなかに入ることはできませんが、もう一度からだが小さくなることができるんでしょうか?」といったとんちんかんな質問をしました。

その時イエス様はわかったのです。
ああ、異端だ、間違っていると私をあれこれと言っているが、本当に異端なのはむしろ、ユダヤ教の指導者たちではないか?
このように聖書に精通した信仰深い人でさえ、理解できないのならば、皆にいくら説明しても理解できないはずだ・・・。
私がここで福音を伝える前に、もっと彼らが聖書のことを知っていて、神様のことを知っていたらよかったのに・・

たとえを使って

がっくりとする気持ちもありましたが、会って話をすれば、心を通わせて、神様を感じる手ごたえはありました。

私がここであきらめたら、何もできない。
できないのなら、方法を変えて行えばいいんだ!
祈るとそのような心がわいてきました。

そうだ!幼子は固い食べ物が食べられない。柔らかくしてすりつぶして食べても同じ栄養だ。
私を通して伝える神の言葉も、わかりやすく理解できるように工夫してみよう!

その日からイエス様は、幼い子に教えるようにたとえ話を使ってわかりやすく説明することを始めました。

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