ゲーム依存症との戦い
昨今の情報によると、Youtubeなどに触れるのは何と1歳、2歳から、
ゲームも幼稚園生ともなればお手の物です。
隣に、甥っ子たちが住んでいて、今風に言う、2.5世代家族のようになっているのです。
彼らもこの時代の申し子であることに間違いはありません。
私たちの教会では、特に大人でもYoutubeを見すぎたり、ゲームをすることを、どちらかというと、推奨してない、と思われます。
が、彼ら(甥っ子たち)は、私たちの教会に熱心に通っている家の子、というわけではないので、当然、ゲームを後ろめたく思うことは少ないと思っていました。
でも、一般的にもゲーム依存症について深刻にとらえる向きは多く、そういったことにこたえるように、ニンテンドーSwitchなどのゲーム機もそうですが、「一定時間操作すると自動的にシャットダウン」して依存させない機能、というのがついている、ということを知りました。そうして、実際に甥っ子のため、彼らの親はしっかりとその機能を使っていることも、知りました。
とはいえ、抜け道なんていくらでもあります。
このSwitchのダウンの後、隣のじじばば&おばちゃんのいる我が家で、ありとあらゆるゲームをしにやってきます。
Switchはありませんが、スマホのゲーム、Youtube、ネットゲームなど、無料で楽しめるゲームをやろうと、私の使ってない何かの電子機器を触り、時には占有に成功し、私の部屋は小さなネットカフェのような有様です。
いかにこの世の中がゲームにあふれているのか、ということを思い知らされる出来事でもあります。
子供たるもの、野原をかけまわるべし
そもそもICT教育そのものに、反対していました。
IT業界20年を超えるキャリアをもってして、経験からいって、「自信をもって」反対、そう思っていました。
まず健康の問題がある。IT業界に従事している人は、目をはじめとして身体的な負担が大きいとか、いろんなことが取りざたされています。そのため、休日には、サイクリングとか体を動かす趣味をもってストイックなまでに健康管理をする人も少なくないんです。
それに、ただ機械の扱い方を学んだからといって、世の中を発展的に引っ張っていける人間になれるとは思えません。
GAFAと呼ばれる会社に勤めるITの巨人たちは、皆、わざと子供たちに電子機器を触れさせない、という教育が流行していました。(今はわかりませんが)そうして、電子機器を触らせないで、キャンプとか、電気がないときどうやって生きていくか?みたいなことを教えてくれるような学校へ無理して通わせていると聞いたのも反対の理由です。
日進月歩のICTの世界で、今学ぶプログラミング言語が彼らが大人になっているとき主流の言語あるいは技術という保証などできません。
いや、考え方だけは学べるから、と言いますが、プログラミングをいくら優秀にしても、便利なものが生まれるわけじゃないわけですし、決めた通りのレールにのらないのが人生ってものじゃないかと。
ゲーム、とことんやっていいよ!といった日
いくら反対したところで、幼稚園生の「えい君」、のゲーム依存はひどくなる一方です。
「ママー、一日中ゲームやっていい?」と聞いて、
ママに「ダメに決まってるでしょ!」と言われるやり取りが続いていたんです。
最初は、ちょっとした遊びという感覚でしたが、この先この子は大人になったら「部屋で引きこもってゲームばっかりするような子になるのかな?」と不安になるような行動も増えてきました。
5歳6歳でも、男の子っていうのは、それなりに力もあるし、想い通りにゲームができないとなると、時に暴れたり、叫んだり。
教会で「子供はたたかなければいい子になる」と先生に教わったので、他人の子だろうが教会に関係なかろうが「絶対にたたかない、怒らない、怒鳴らない」を心掛けていますが、
私の「ゲームはダメ」、に「やらせろよ!!!」と荒々しい言葉が増えてきます。
私だって、永遠な18歳とかいって、昨日高校を卒業したぐらいの気分でいますが、時間はあっという間に過ぎます。
小さい子の1年の成長っていうのはものすごいです。当然ゲームにかけられる集中力体力の発達もすごいわけです。
かわいい見た目、かわいい声だから、(笑)ってなるけど、ゲーム熱はおさまるどころか高まるばかりです。
時には本当に子供で、簡単にガラスのハートいう感じで禍根を残してはならないし、とはいえ、ずるずる好きなようにやらせていたら、あっという間に困った大人になる。
声を荒げたくないけど、説得する力及ばずなこともあれば、単純に忙しすぎてわずらわしさもある。
四六時中一緒にいるわけでもない、「かわいい」要素満載のこの子にでさえ、そういうジレンマをもつわけだから、「子育て」とは本当に偉大なわざだと改めて子を持つ親御さんというだけでも尊敬また尊敬です。
ありえないけど
この攻防戦が1年、2年と続いたある日、明け方彼らのために祈ろうと思って深く祈ってみました。
すると、世間的な常識からしたらありえない、けど、
「ゲーム、好きなだけやっていいよ。やりたいなら一日中でも徹夜でも。」
といってゲームを好きなだけやらせることに方針を転換しました。
なぜ許可?
その間の度重なる「えい君」の切なる哀願に負けたわけでもかわいらしさに負けたわけでもないです、
「ダメの一点張りは限界がある」と思った。
ICTに関しては、”麻薬や殺人のように、ダメなものはダメ!絶対にダメ!”なものではなく、
「大人になれば適度に使うもの」の部類だと思います。
ゲームだけがICTではないですが、ゲームをする時間として人生の時間を選択する権利は、「子供本人」にあるわけで、それを無謀に奪える権利など、ないとも思います。
つまり、「自分で自分のことを決める大人になってほしい」と思ったんです。
「子供だからダメだ」と子供に理解できない理由で子供を押さえつけると、大人になって自由になっても、難しくなる、そう思います。
「いつも人の顔をみながら他人はそうしているつもりではないのに、縛られている感じがして窮屈だと感じる大人」になるか「思い通りに行かなければガツンと強く言って従わせようとする大人」になるか、「好きなことをやるんだ、といってとんでもない無茶をやって身を持ちくずす大人」になってしまうんじゃないか?と思うことがあるんです。
人生は1日1日が積み重なり連続的に進んでいくので、はい、今日から大人です、といっていきなり大人になれるわけではないし、身体は小さいけれど悪知恵の鋭さはすでに大人と変わらないときもあります。
なのでなるべく、「子供だから」とか「幼いから」という理由しかない場合、大人と同じく考えて接して扱うことにしています。
今回も、やりたいことをやっていい。だけどやる中でメリットもある、デメリットもある。デメリットを抑えてうまく折り合いつける力はいつ養うのか?と考えるとやっぱり「子供の時」なのかな?と思った、それで許可しました。
やるならとことんやれ
身近に、何人かそういう教育を受けた大人を見たことがあるんです。
登校拒否になって、家でゲームばかりしていた子。その子に、お父さんが「それなら学校行かずに好きなだけゲームをやれ」と許可したそう。
中学3年間登校拒否でしたが、結局大人になって、優秀なゲームクリエイターになったそう。
ほかにも、暴走族上がりでぐれてます、って子だったけど、
「人を傷つけることだけはしてはいけない。だけど、ほかはなんでも好きなことしなさい。やるんだったら一番になりなさい!」と教えられた人。
それなりに「出る杭」として苦労はしたのかもしれませんが、「突出した杭」となったら打たれない、ものです。今からの時代は「同調圧力」というものに負けず、「何かの面では突出した人間」が求められる時代になるのでは?と思います。
ADHDなどの人々を「障害」と名がつく言葉で分類される時代は終わり「ギフテッド=神に才能を与えられたもの」と呼ばれるように、本当の「その人らしさ」をのびのびと発揮していける社会になってほしいと思います。
中毒は一週間だけだった
目にクマ
この言葉を放った最初の日、
やったー!!!
と狂喜乱舞。
朝3時間、ご飯を食べてまた4時間、 ずーっとゲームをやり続けました。
幼稚園児なのに、目にクマ(汗)
それでも、教会に通うことを反対している私の母、つまり「えいくんのおばあちゃん」からはめっちゃ怒られました。
「あんた、何考えてんの?」
それでも結構心配はしましたが、「子供は純粋だから、大人以上に約束を破ったらいけない」という私のモットーもあり、「方針転換」するなら、子供にそれなりに納得させる必要があります。
「いいんだけど、1時間ぐらいしたら休むのがいいよ。目が悪くなるから“大人も”休むんだよ」とか教えました。
1時間という時間制限が守れるようになった
それでも結構心配しましたが、なんと!中毒は3日続きませんでした。
次の日は、「今日はゲームしないんだ。ママと約束したんだ」といいます。
それでもちょっとはやっていましたが、1時間もしないうちに切り上げて、その後は、自分で決めた時間、それ以上することはなくなりました。
その後長い時間が経過しましたが、自分で「1時間だけにする」と決められるようになりました。
1時間とは、彼の中ではかなり「最大時間」です。
今までは、絶え間なく、隙あるたびに「ちょっとだけやらせて」とのべつまくなしにゲームゲームといっていましたが、1時間過ぎたよ!というと、すっとやめて「バイバーイ」といって帰ります。
その分、外でボールを蹴ったり、散歩したり、一日のプログラムを自分自身で多様に組めるようになっているみたいで、ひとまずほっとしたところです。
まだまだ続く、自由とわがままの奮闘記
この先、また違う面白いことがありました。。
一難去ってまた一難、奮闘の日々は続きます。続きはまた今度・・・
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