聖書は文学の書、といわれる。
その代表的なワザが、
「韻を踏む」
です。
韻とは
くだけていうと「ダジャレ」(布団がふっとんだ(失礼、古くて))のような
同じ音を使うことですが、ダジャレとは違って、もうちょっと高尚な世界です。
ちなみに、「韻を踏む」と同じ意味で「韻を押す」とか「押韻(おういん)」といった日本語も同じ意味です。
有名な歌謡曲なども、韻を踏んでいるものが多いといわれています。
リズミカルでおしゃれ感MAXになるというわけです。
「韻を踏む」の由来は中国の詩の形式「絶句(ぜっく)」というルールが由来。
聖書にもあり、中国の詩にもあり、古くて新しい、新しくて古い、
そのような形です。
聖書にある韻の世界
最も有名なのはダビデが書いた詩編。
新共同訳以降には、削除されてしまいましたが、
口語訳の詩編を読んでみると、
詩編119編には、
「アレフ(どこかの団体みたいな名前でなんですが)」「ベス」「ザイン」などといったカタカナが混じっています。
これは、ヘブライ語のアルファベットで、次の不思議なカタカナ単語が並ぶまで、
A、B,C、日本語ならば いろはとでもいうでしょうか?
例えば「ベス」をBとした場合、日本語ならば「ビ」で始まる単語で行の1文字目がそろっているというような感じです。
しかもダビデは、ゆっくりと落ち着いた環境でこれらの詩を書いていたのではありません。
いつもいつも命を狙われながら、追われて死にそうになりながら、
その中でダダダっとこの意味のある詩を「韻を踏んで」書いたのです。
驚異的な美しさだったといえるでしょう。
それはそれは文学的に優れた人だったといわざるを得ません。
ほかにも、イエス様も多くの韻を踏んで説教をしたとされており、
たとえ話と並んでリズミカルな「韻を踏む」聖書の文学の世界が広がっているのです。
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