イエス様物語(10) 

聖書の人物

―虎

やネズミはしょっちゅう あちらこちらへと出てきて騒がしくしますが、虎は静かに山で眠っています。
しかし、ひとたび虎が頭をもたげてすっと立ち上がると、山中にその声が轟いて岩が崩れ落ちんばかりです。

ナザレはイスラエルの北のほうにあり、ユダヤ教徒ではない人々が多く住んでいるガリラヤやカペナウムが近くにありました。
「ナザレだって?あの田舎にどんな人がいるんだい?」
そういいました。田舎の原始人のような生活をしていると思って差別的な言葉を浴びせる人々も少なくなかったのです。

イスラエルの人々は目に見える家柄や肩書を重んじていましたし、見た目が洗練されていて強そうに見える人こそメシアだと思っていました。

イエスは見た目は静かで落ち着いています。
声を荒げることもなく、普段の会話のように静かに春風が吹いてくるようにすすすっと話を始めます。
ですから、外見だけを見ていると、皆通り過ぎてしまうような目立たない人に見えました。

しかし、口を開いてひとたび話を始めると、何気ない日常の小さな会話のようで、そこから流れる川のようにゆったりと、しかしどんどんと大きなうねりになって、聖書の深い知恵と知識とともに深く心を揺さぶる何かがあります。

また、手を静かに置いて祈るだけで何十年と不治の病に苦しんでいた人が癒される奇跡も起きました。
病を治したといううわさを聞きつけて遠くから訪ねてくる人、
見れば見るほど不思議なことがある、と好奇心を抑えきれずについてくる人、
そこに多くの集まりがあるから何か食べるものでももらえるだろうと期待してくる人など、さまざまな人がイエス様の周りに集まるようになりました。

ユダヤ教の指導者たち


イエス様の群れが次第に大きくなるたびに、ユダヤ教の指導者たちは面白くありませんでした。

イエスの集まりは、男だけではなく、女もいて、子供も、身分の低い人たちもいて、秩序のないうるさい集まりに見えました。

それなのに、ユダヤ教の将来を背負って立つと期待していた若い人たちがどんどんとイエスについていくではありませんか。
自分たちの弟子を奪われたような面持ちがして、イエスのやることなすこと何もかもが気に入りませんでした。

特に、パリサイ派と呼ばれるユダヤ教の一派では厳しく掟を守ろうと熱心な人たちからみると、イエス様の集まりは、「おきて」を守っていないように見えたのです。
特に「安息日」と呼ばれる、日曜日のことで憤慨しました。

パリサイ派の人たちは、「安息日」にしてはならないことを39も書き上げて表を作っておりました。
特に、「安息日」は仕事をしてはいけない、という掟を厳しく守ろうとしていました。畑に出てくわで耕すことも仕事です。それどころ、ほこりのたまった床の上でいうを引きずるだけでも耕したことになるので罪だ!と互いに厳しく気をつけあいました。

安息日は誰のものか?

麦畑

イスラエルは砂漠の多い地域ですから、
おなかがすいていたのなら、人のおうちの小麦や果物も、
自分が食べる分だけを少しだけ取って食べるのならば、
差支えがありません。
命をつなぐために必要なことだと考えられているのです。

イエス様の弟子たちも安息日にイエス様についていきながら耐えられないほどの空腹になりました。
そこで通りすがりにあった麦畑で麦の穂を少々拝借したのです。

普通ならば何の問題もありませんが、パリサイ派の人々は
「安息日に小麦を刈り取る仕事をしている!」とカンカンになって怒りました。

不思議なほどいつもイエスの動向に目を光らせていて、、イエスのあちこちでの行動をまるで監視しているかのようでした。
彼らは、イエスを中心とした集まりがイスラエルの風紀を乱すんだ!といって、悪者を退治する正義の味方のような気持ちでいました。
しかし、ほんとうは、パリサイ派の人々はイエスとイエスについていく人の揚げ足をとって、なんとか自分たちが上だということをイエスとイエスの群れにも、そして世の中の人にも認めさせたかったのです。

安息日の主人は誰か?

ある時、イエス様が
死にそうになっている病人を安息日にお癒しになりました。

するとまた、「安息日に人を癒すなどというふうにして何重にも掟を破っている!」
とまた怒るのです。

今日明日死にそうな命でもないのに!
さすがにイエス様も我慢の限界に来ました。

私の命や苦労ならまだしも、この貴重な神様の命を捨てるなんて私にはできない!

それで、イエスは重い口を開いて彼らに言いました。
「これがあなたの愛する息子だとしても、黙ってみているのでしょうか?
いいえ、あなたの家の羊一匹が井戸に落ちて死にそうになっていても、安息日だから、と見殺しにしているのでしょうか?
安息日の法に縛られて不自由をして生きて、それで神様が喜ばれると思いますか?
私たちは安息日の奴隷ではありません。
神が人間により一層豊かになるようにと作ったものです。
私は安息日でも安息日でないとしても、人のために良いことをするのはいつも神様から見るときにに良いことだと定められているとしか思えません。

それから、あれこれと口論のように話が続きました。
「安息日の主人」の話になったとき、
イエスが自分がメシアで安息日の主人でもある!と言っているように聞こえました。
しかし、パリサイ派の人から見れば、ただの聖書の説教者で、しかも掟を勝手に解釈して曲げて、その上メシアだといって人々を惑わしていると思ったのです。

パリサイ派の人々を中心に、ほかの教派の指導者たちも一緒になって言いました。
「あんなやつがいたら神の裁きを受けるだろう。彼を成敗してしまわねばなるまい」
イエスさえいなくなれば元の平和なイスラエルが戻ってくるはずだ、と信じていました。

イエス様は少し疲れて、人のいない山の中へ祈るために足を踏み入れていきました。

「私の言葉を伝えようとしたのなら、匕首(あいくち)で指すような様々な痛みを苦しみに会うだろう」祈りの中で聞こえた神様の声が心の中にこだましていました。

私が神様の心を慰めて差し上げ、命を抱きかかえていくと約束したのだから・・。唇をかみしめながら山道を上っていきました。

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