イエス様物語(8) ~洗礼を授けるヨハネ~

聖書の人物

荒野で呼ばわるものの声


ヨハネはすくすくと成長していきました。
幼いころから、父ザカリヤに多くの教えをうけ、若いながらも聖書の知識は際立(きわだ)っていました。
また、ヨハネは背も高く体格もよかったので、誰からも注目される存在でした。
ひとたび律法に関する説教を始めれば、彼の声は雷鳴のようにずしんと人々を突き刺しました。
いつしかヨハネはヨルダン川に出て大声で説教を始めるようになりました。

「家柄もいいし、聖書にも詳しいし、何より彼は威厳がある。
彼が来たるべきメシアかもしれない。」

どこからともなくさまざまなうわさが飛び交い、人々はヨルダンの川にヨハネを一目見ようと集まってきました。
その人の群れは気が付けばあまりにも多くの群れとなっていました。

悔い改めよ、天国は近づいた

彼はいつもその説教の中で言いました。

「悔い改めよ。天国は近づいた。」

「天国とは何か?」
皆がざわざわとしました。
引き付けるのが上手な彼の説教に、心がびりびりとする人たちが多かったのです。

「天国とは何か?われらが待ちにまったメシアが来る日は近い。
もうこの世に降りてこられているかもしれない。
心も行いも清くなり、我らが心のすべてを今いっそう神に近づけていこう!」

こうして、彼らは集まりのたびに自分の罪を悔い改める祈りをしました。
時には1時間、2時間、大声で叫びながら涙を流して祈りました。
そうして、祈りが終わると、ヨハネはヨルダンの川に一人ずつ招き入れてその水を注ぎました。

「これはあなたの良心が神に向かったしるしです。」

人々は言いました。
「あなたはキリストではないのですか?」

それでヨハネは答えました。
「私はキリストではない。
 キリストと呼ばれる救い主は私の後に来られる。
 その方の偉大さに比べたら私など、虫けらのようにちっぽけだ。
 私はその方の靴の紐を解く値打ちもない。」

それで人々は言いました。
「あなたのような説教でこれほど心が震えるほどですのに・・
 キリストでないなんて、信じられません」

それでヨハネは言いました。
「私はただ、水であなた方の心を溶かすだけだ。
 しかし、来たるべきキリストは、火のような言葉を持ってきてあなたの罪と矛盾を焼き尽くすだろう。完全に悪を切り裂いて神様の御心を立てるだろう。準備していなければキリストが来ても見えず、聞こえない。
水面が清い水で澄んでいてこそ、水面に景色を移すことができるだろう。
神は清いものが見ることができる。だから私たちはただ、心を清くして待っているしかない。」

そうして、一人一人、水で洗礼を授けました。
いつしか人々は彼を「バプテスマのヨハネ」と言いました。
バプテスマとは洗礼という意味です。
この時代に生きる人々は皆彼の洗礼を受けているといってもいいほど多くの人、特に若い人たちがバプテスマのヨハネを「先生」と呼びました。

いつしか、バプテスマのヨハネには「先生」といってつき従う人々が群れをなすようになりました。

聖霊が鳩のように

ある日、バプテスマのヨハネがヨルダンの川でいつものように説教をして、一人、また一人と洗礼を授けていると、見慣れた顔がこちらに近づいてきました。

それはいとこのイエスでした。

「イエス?イエスじゃないか!ナザレから?遠いところを来たのだね?
お母さまとお父様はお元気かい?」

イエスは答えました。
「ああ、お久しぶりです、ヨハネ兄さん。
 今日は兄さんの勇士を見にきました。私も洗礼を受けたくて。」

それでヨハネは答えました。
「何を言っているんだ・・。君は私より聖書に詳しいし、生まれたいきさつもすごかったと私の母や父が言っているのに・・。」

イエスは答えました。
「いや、それでも今受けさせてもらいたい。神様が私にここで洗礼を受けよとおっしゃっているのです。」

「順番通りに並んで長い時間待たなくても、私と知り合いなのだから、こっそり訪ねてきたらよかったのに・・」
ヨハネはそういいましたが、内心、うれしかったのです。

こうしてイエスに洗礼を授けているとき、ヨハネは目を開けたまま、はっきりと幻を見ました。
イエスの後ろを強い光が差し込んできて、神から出た聖霊と呼ぶべき大きな霊が鳩が舞い降りてくるように舞い降りてきたのです。

ヨハネはこの幻に心底驚きました。
ヨハネが洗礼を授けている理由は、表向きは人々の心を悔い改めさせるためでしたが、もう一つの目的は「キリストを探すこと」でした。
あらかじめ、ヨハネは「あなたが洗礼を授けているとき、聖霊が鳩のように下ってくる人を見たらその人がキリストだ」という啓示を受けていました。

何百人、何千人、あまりにも多くの人に洗礼を授けても一度もなかったのです。
しかし、どのように見ても否定できないほど、はっきりとわかりました。
どんなに否定しても、この人だ!という否定できない思いがわいてきます。
それで、その場でヨハネはひざまずいて言いました。

「私はあなたがメシアだと悟りました。」
こうして自分の受けた啓示の一部始終をイエス様に語りました。
するとイエス様は言いました。

「確かにわたしがそれです。私もまた、自分がキリストだという啓示を受けたのです。」

手を取り会ってこれからは一緒にいきましょう、といって、その日は分かれました。

心変わり

バプテスマのヨハネは家に戻り、ふと我に返りました。
帰り際、バプテスマのヨハネを「先生」と呼んでついてきている弟子たちが言いました。

「先生、私たちはこれから誰を信じて生きていけばいいのでしょう?
あなたですか?それとも、あのナザレから来た、田舎者の青年ですか?」

バプテスマのヨハネはすぐに答えることができませんでした。

田舎者・・・

この世の中の常識がバプテスマのヨハネを強くとらえ始めました。

ナザレと言えば、田舎も田舎、どこにあるのだろうというような場所です。
エルサレムという都会に住んでいる人々は、時折
人より獣が多く生きているのではないか?とか
ナザレの人々のなまりのある言葉遣いを「洗練されていない」などといって馬鹿にしたりしていました。
知恵がないといわぬばかりでした。

あんな訛りのひどい奴が本当にキリストなのか?
そういう人々のそしりを自分も一緒に受けていく、そのような道が遠く感じられました。

自分は来たるべきキリストではない、
それはわかっている。
だけど、よりによって、あのイエスがメシアだって・・・

ずっと弟だ、としか思っていなかった人をキリストだといわれても、どう説明をつけたらいいのだろうか?

弟にひれ伏す兄がどこにいるだろうか?
とイエスより自分はずっと上だ、と思う心が啓示を
何か違う解釈をすべきでは?と無意識に自分を正当化させていくようになりました。

思えば半年後に生まれたいとこ、小さいころから優しく、話し方もゆっくりで何の強いところがあるんだろうか?
あれこれとイエスはキリストであるはずがない、その理由を探し始めました。

しかし、「キリストが来たのなら、私は自分のすべてをなげうってその方についていき、自分の一生を捧げます。」
思えばそれは、バプテスマのヨハネが物心ついたころからの祈りでした。
その祈りの声がいつも思い出され、良心の呵責にかられました。

私が間違った啓示を受けたのか?
釈然としない思いで葛藤が大きくなり、バプテスマのヨハネはさんざん悩みました。
しかし、いくら考えても答えは出ませんでした。

そうして1日、2日、1週間、1か月・・時は過ぎていきました。
バプテスマのヨハネは押し寄せてくる人の群れに相変わらず水でバプテスマを授ける毎日が過ぎていきました。
日がたてばたつほど、イエスに会うのが気まずくなっていきました。
こうしてバプテスマのヨハネは頭を失った龍のようにあちらこちらへとさまよっているかのようになりました。

バプテスマのヨハネが出す荒野の呼ばわる声は一層哀しく強く響きました。
むなしく冷たい水はバプテスマのヨハネにしみていきました。

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