「絶対予定」と「相対予定」

Bible Study

「予定」ってなに?

予定っていう言葉自体が難しいですよね。予定というのは、キリスト教全般でよく使う言葉で、俗的に言えば「運命」のような意味でとらえていただければいいと思います。よく占いで「未来」を占うと思うんですが、将来どうなるの?といったことだと考えていただければいいです。

予定に関する論理

この「予定」。特にクリスチャンたちは「神様」を信じてますから、「神様」とのかかわりあいで「絶対予定」を主張するクリスチャンたちが少なからずいます。

「絶対予定」とは、人間の運命は全て(絶対的に)神が定めている。という考え方。つまり、神様が決めたことに人間は逆らえないということだという論理です。

この論理を聞いてクリスチャンに対するマイナスイメージを持つ人も結構いらっしゃると思います。「神様」が決めるのだから、努力とは関係ないという理屈に思えて、そこから派生して、クリスチャンは弱いとか、地に足がついてないから嫌だといったイメージがあるように思います。

「絶対予定」説はルターから

実は、この「絶対予定」を唱えたのは、宗教改革者ルターが始まりでした。社会科の授業で習った「免罪符(めんざいふ)」という言葉を覚えていらっしゃいますか?ルターが出てきた当時、教会はお金ばかり求めて腐敗していました。

それで、「お金で救いが買えるのではない!救われる人は神が選んでおられるのだ」という風に主張し、腐敗した教会を立て直そうと奮起したのです。そうして、聖書をドイツ語に翻訳し、当時出始めていた印刷の技術で聖書を本として出版しました。

カトリックの神父さんは、白い服が多く(ローマ教皇などもそうですよね)、牧師さんは黒い服を着ていますよね?黒い服を着るのはプロテスタントからで、「正義」を意味する黒を用いるようになったといわれています。

カトリック意外にもイスラム教では「インシャラー」という挨拶が神のみ旨のままに、といった意味だったりするようです。

相対予定(そうたいよてい)

これに対して、「人間の努力によって運命は決まる」と考えるのが相対予定説です。聖書にも根拠があって、例えばヨナ書のニネベの町を滅ぼすのをやめたことなど、「絶対予定」として神様が決めたと考えるのなら矛盾が生じるということです。神様のなさることに間違いはない、という風に考えると、なんで善悪を知る木の実を食べるとわかっていて、意地悪なことをしたのか?とか、ノアの時に人間を作ったことを悔いる、といったりしたので合わない、というわけです。

じゃあ、どっちなの?

醤油派?ソース派?という質問ならば選べそうなんですけど、時々「両方!」って答えたくなることありません?

何でもかんでも神様がきめた 通りに生きるなんて、縛られているみたいで嫌だという気持ちもあるでしょう。中には、神様は忙しいのだから迷惑をかけたくないなんて殊勝(しゅしょう)なことをおっしゃる方もおられます。

努力して自分のことを自分で決めたい、それが楽しいけれど、「困ったときの神頼み」ということばに代表されるように、神様にだって手伝ってもらえたらうれしい!というわけです。

以前総会長牧師が「どんな神かは別として、神様!と人生で一度も呼ばない人間はいないんだ」とおっしゃいました。実際私が今まで1000人ぐらいに聞いてみたんですけど、確かに、一度も神様と呼んだことがない人には合ったことがありません。神社に入って拝んだり、心の中に神がいると思っていたり、いろいろですが、やっぱり助けてほしいと呼ばなかった人はいないようです。

神様との付き合い方を考える

実際のところ、人間が努力して変えられる部分と、神様が努力して助けてくださる部分とがあります。その作業分担の割合、どれぐらいだと思います?

ある人は、神様2で人間8、という人がいるし、ある人は神様と人間フィフティフィフティだという人もいます。本当にいろいろ・・。あなたはどう思われますか?

こうやってみてみると、神様は何をされる方なのか、正確にわかるようになります。そして自分はどんな努力をしたらいいのか、少しずつ見えてくると思います。

”方向があってなければ熱心は意味がない”とかの有名なガンジーさんが言ったそうですね。

そういえば、会社やサークルで自分のことはおろそかにしているのに、他人のやることに口出ししたり、あれこれ手伝っていて怒られる人っていますよね(笑)

予定論を勉強していると、神様は怒ったりはしないのでしょうけれど、神様が「私が手伝ってあげるよ。」っていってるのに完全に無視して「神様は何にもしてくれないじゃん!」と怒ってる人のなんと多いことか、という声がどこからともなく聞こえてくるような気がするときがあります。

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