毒舌の勝利

ちえみThinking

※本日の記事は教会で習った御言葉ではなく、私の考えたことを書きます。なので、(いつもそうなんですけどこの記事は特に)あくまで個人の考えたこととして読んでいただきたいです。

舌を制しなさい、聞くものに恵みを

私が、クリスチャンだということがわかると、「クリスチャンらしくない」と言われます。 いい意味のこともありますが、大抵はあんまりよくない意味かなと感じます。

私の至らなさを純粋に指摘するようなことならば、いいのですが、そもそも、クリスチャンのことを、「人の話に反論はしない」、「相手がどんなにひどいことを言おうとも、絶対に怒らない」、「言い返すなど、クリスチャンの風上にも置けない」ってイメージを持っている人って意外に多いのかな?って思うと、それってどうなんだろう?って思うんです。

とはいえ、私の「ことば」に関する悩みは尽きません。

信仰とは人格だ。人格の一番地は話すことにある。と聞いたことがありますし、「舌を制しなさい、聞くものに恵みを」とは、聖書の有名な言葉で、この言葉をはじめとして「やさしい言葉」はクリスチャンとして生きる私にとって最重要課題の一つであります。

私の問題だけにとどまらず、クリスチャンと呼ばれる教派を越えた多くの方々とイエス様の顔に私のことで泥が塗られたらいけないのに・・

それ以上にイエス様を愛する人として、言葉で人を傷つけるなんて、ほんとに由々しき問題です。。はあ、どうしよう、と真剣に考えました。

お世辞と嘘がどうしても好きになれない

私の言葉の大きな問題の一つは、「言っていることは正しいけど、率直すぎる物言いが相手を傷つける結果になる」ということです。

クリスチャンになる前から、お世辞と嘘がどうしても好きになれません。
日本の文化に「本音と建て前」という言葉があったり、「和して同ぜず」といった言葉、「嘘も方便」という言葉など、 人の関係を円滑にするために、お世辞や嘘を方便として、うまく使えるのが大人であり人格者というのが日本文化というものなのかなと思います。

でも、それがどうしても好きになれない私。というより、不器用なので、取り繕うっていうことができません。相手を思いやれる愛が足りないのかと、神様を信じていない日本文化を極めた方々よりも劣る自分の姿が情けなく、神様にも申し訳ないと思うことがよくあります。

毒舌が好きな私

私の「言葉に現れる人格」について追及を続けてみてわかったことがあるんです。

私、毒舌タレントが大好きなんです。

そもそも、そこから道を間違えてるのかも知れない、と思いました。じゃあ、どうして私はこんなにも毒舌を愛しているんだろう?って考えてみました。

人は責められると自分のいいわけをしたいのが人の心理ってものでしょうか?そういえば、うちの教会って、うわ!ってたまにスパイシーな言葉を発する牧師さん、いるじゃんか、と考え始めたんです。
率直といえば率直、なんですけど、最初ちょっとびっくりしたけど、明らかに教会での「市民権」を得てるよなあ?それはいいのかな?と考えました。

なぜか・・・辛口?な牧師さんたちの発言を考えると、その言葉にどれだけ勇気づけられたかわからない、と感謝している自分がいました。
わだかまりをすっとほぐしてもらったり、和解に至ったこと、
自分の思い違いをスパっと切られて、今までの努力が全部報われるような方向へと進む決定的な瞬間になったことのほうが多かったんです。

苦い味の正体

どうして大人は苦い味が好きなのか知っていますか?
私が聞いたところによると、これは生物学的にも根拠があるのだそうです。
食べ物は腐敗すると、すっぱくなたり、苦くなったりするので、経験の少ない子供は、腐敗したものを間違って食べないように、甘いものを好んで食べるそうです。
対して大人は、食べ物に対する経験も増えるので苦い味がわかってくる、というのもあるし、長年生きてきてたまっている毒を排出するような食べ物には苦いものが多いため、苦みをこれまた本能的に欲するのだとか。

心の中にたまった毒をデトックスしてくれるような、そんな効果があるものを人は 「毒舌」と呼び、愛するのかな、と思いました。

やさしい言葉は塩味

本日のブログのタイトルを、「毒舌の勝利」としたんですが、実際は「塩味の勝利」といったほうが的確かもしれません。
最近、毒を放ったように思える牧師さんたちは、やはり「聖書の言葉の実践者」だと気づいたんです。

いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう。

コロサイ人への手紙/ 04章 06節

この聖書の箇所を読んでいて、この前、はたと気づいたんです。
”塩で味つけられた”・・
はっ!塩味!

塩の性質について比喩論で習いました。
自分を犠牲にして相手を腐らせず、味を引き立たせ、本人は目立たない。でも必要不可欠なのが塩。 イエス様が地の塩となれ、といったあの塩・・。

でも、塩って、しょっぱい・・・・甘くはない、です。

塩のようなしょっぱい味だけど、人の心を柔らかくしてくれて、心が腐らないようにしてくれる言葉!ってこと。それは、塩のように聞くときは甘くはない時だってあっていいってこと?じゃない????

辛いけど、愛にあふれた言葉だからいいんだ・・・。塩は味つけられると自分の原型をとどめていません。 牧師さんたちは、言葉は塩のようにしょっぱいかもしれないけど、自分というものを犠牲にするのだとしても子供を守る親のような深い心をもって接してくださってるんだとわかりました。 だから、一言目は塩のようにしょっぱいけれど、そのあとに出てくる言葉を続けて聞いていると、私より私のことを真剣に考えてくださっている言葉がたくさん出てきて、硬直していた問題がほぐれて解けて柔らかくなっていくということ・・か???

よし!私も「塩で味つけられたやさしい言葉」をもてるように、がんばろう!と心を決めた今日でした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました