常識という仮面をかぶった心配という悪魔
心配性の代表のような私などは、心配する趣味でもあるのかというぐらい心配ばかり。
ちょっとした言葉の端々や、耳に聞こえる会話などを敏感に感じ取ったり、家に帰ったら帰ったで、世の中のニュース一つで一晩眠れないほど心配する始末。
ちえみちゃん、信仰暦長いのにどうして主にゆだねないの?とやんわりとご指摘を受ける始末。私の心配症は、なかなか治りません。
心配しないという成功
心配性の私は、大胆な上司が苦手です。ある日、気が付きました。「あんや仕事できないやつが何で!」と心の中でイライラしている自分に。でも、どう考えても、彼は能力はないかもしれないけど、客観的に考えたとき、リーダーとして十二分に仕事を回していってるのです。
その「あんな奴」はどうして上司になったのか?一度研究してみてわかったんです。
ああ、彼は、自信を持ってるんだなと。根拠はともかく、自信をもっていて、いつも自分のやることはうまくいく、と強く信じる力があって、そのポジティブな考えに、吸い寄せられるようにして波乱はあっても最後は彼が完了させる方向へ持っていけると思われてるんだなと。。
もちろん、部下を陥れるようなことや、手荒い真似はしたらいけないと思うけど、要するに、彼は技術はなくても聖書的に言う「信仰」ってものがあるわけだとなんだか勝手に自分なりに納得してしまったのです。
心配しないで楽観的に、ポジティブに考えることの重要さを痛感し、依頼その上司とぶつかることはなくなりました。私も彼を尊敬できるようになったし、そのように考えられるようになったら、彼は私に本音を言ってくれるようになり、タイプが違いますから自然に役割分担ができて、仕事はとんでもなく理想的に進むようになりました。
アドナイ・エレ
心配性な私に先輩が紹介してくださった言葉が、「アドナイ・エレ」
アドナイ・エレ(ヤーウェ・イルエ、エホバ・イレと同義)とは、「主の山に備えあり」という意味です。
旧約聖書でアブラハムが、息子イサクを捧げなさいといわれて、山で息子を殺して捧げものにしようとしたところ、まって!と神様の声が聞こえてきて、息子は助かり、そこに捧げものとなる羊がひょっこり出てきたので、羊を息子の代わりにささげてハッピー!というわけです。それを通して、神様が必要なものは用意してくださるという、言葉です。
以前、総会長牧師がアドナイ・エレにちなんだ詩を書かれていて、その一節が素敵です。
暗い夜が来るからといって恐れるな。
少ししたら神様はあなたの頭の上に月が輝くようにして下さるだろう。
月を明かりとしていそしんで歩きなさい。
そうだ。
月が西の方に傾くからといって落胆するな。
少ししたら神様は東の方から輝かしい日が昇るようにして下さるだろう。
その日が西の山に暮れてしまわないうちに、
あなたは残っている所の人生をいそしんで未練もなく走って
価値ある人生を生きなさい。
私はこんなにいい話を聞いてるのに、なかなか変われないな、としみじみ思いつつも、違うってことわかってるわけだから、きっと何とかなるよ、と言い聞かせた一日でした。
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